暗黒の章 第32章 風車が回る 今日も雪が降る

 風車が回る。
 カラカラカラ……
 ベランダに吹き込んでくる冷たい風が、風車を忙しく回している。
 今日も雪が降る……
 『彼』は風車が回る音を聞きながらそう思った。
 外にはまだ昨日降っていた雪が薄っすらと残っている。彼が住んでいるアパートの3階の窓からは、一面に雪化粧をした外の景色が見えていた。例外は車が走る道路だけだ。
 彼は一つ身震いをすると、窓を閉めて、部屋の奥に戻った。風車の音が急に遠くに聞こえる。
ただでさえ散らかっている部屋の中は、イーゼルに立て掛けてある大きなキャンバスがスペースをとっているせいで更に狭く感じる。何のアイデアも浮かばず、白紙のままのキャンバスは、早く何か描いてくれと言わんばかりに、恨めしそうにこちらを向いている。
 彼はそれをしばらく見つめ、大きくため息を吐くと、キャンバスに背を向けていそいそと着替え始めた。
分かってる。分かってるさ。何か描かなきゃいけないことぐらい……
 そんなことを考えながら、隙なく防寒対策をした格好に着替え終えると、彼はカバンを片手にさっさと部屋を出た。
「おお……寒いな……」
 外に出ると冷たい風が顔に吹き付けてきて、彼は思わずそう呟いた。この時期はどんなに着込んでいても寒さを完全に防ぎ切ることはできない。彼はマフラーをしっかりと巻き直し、駅に向かって歩き始める。
 どんなに寒い日でも、朝のこの時間、駅に近付くに連れていつものように人通りが多くなってくる。仕事や学校に行く人々は、寒いからといって休むわけにもいかないので、当たり前と言えば当たり前なのだが、自分も含め、ご苦労なことだ。
 駅前に着くと、北口の隅の方で丸くなっているホームレスのおじさんが話し掛けてきた。
「今日も寒いな」
「そうですね」
「例の国が本当に核実験をやったらしいじゃないか」
「それは大変だ。それじゃあ、行ってきます」
 立ち止まることなく短く言葉を交わすと、彼はおじさんの前を通り過ぎた。
 あのおじさんは毎日彼に話し掛けてくる。必ず、今朝の朝刊に載っていた記事のネタを一つ投げかけてくるのだ。お互いに名前も知らないそのおじさんと会話することは、彼にとっては既に一日を始める上での一種の儀式のようなものになっていた。
 定期券で改札を通ると、彼は到着した急行電車に乗り込んだ。車内は暖かいのだが、満員のため、すぐに『暖かい』を通り越して『熱い』になってくる。その上周りから押さえ付けられるので、他人の体温が伝わってきて不快感は更に増していく。
 いい加減我慢の限界に達するという頃、電車は乗り換えの駅に着き、彼は再び寒いホームに投げ出される。
 電車を乗り換え、この日も何とか目的の駅に到着した。駅の構内を抜け外に出ると、彼の目に空からちらほらと降る白いものが飛び込んできた。
 やっぱり降ってきたか……
 満員電車の中では外を眺めている余裕がなかったため、いつ降り始めたのかは分からなかった。大して降っていないのを確認すると、彼はそのまま雪の中を歩き始める。
 駅から大学まではそれほど遠くない。早足で歩いていると、間もなく大学に辿り着いた。キャンパス内に足を踏み入れると、彼はふと疎外感を感じた。今年で卒業だから、早く出て行けとでも言われているのだろう。彼はそんな風にその疎外感を解釈した。
 校内を歩いていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返ると、そこには友人の畑中弘文(はたけなかひろふみ)が立っている。
「よう、アズマ。今日は早いな」
「今日は一時間目からだからね……。弘文は?」
「俺は図書館で調べ物だ。今日までのレポートが終わってなくて」
「なるほどね。朝が弱い弘文が、こんな時間に学校にいるなんておかしいと思った」
 彼の教室と、図書館の方向が同じだったため、そんなことを話しながら一緒に校内を歩いていく。
「そう言えば、お前、絵のほうはどうなったんだ?」
 しばらく歩いた後、ふと弘文がそう尋ねてきた。
「ああ……それがさ……こないだちょっとプロの人に見てもらう機会があったんだけど……」
「お、それは凄いな。どうだって?」
「……僕は絵の才能がないって言われちゃったよ」
「え……そうか……」
 その言葉を聞いて、弘文は言葉を失ったように黙ってしまった。彼はしばらく間を置いてから、独り言のように呟く。
「止めようかな……絵……」
「おいおい、だってお前、画家になるって言って就職活動してなかったじゃないか」
 彼がそれに答えないので、二人はそのまま黙り込んでしまった。やがて、図書館に差し掛かると、弘文が再び彼の肩を叩く。
「まあ、色々考えてみろよ。絵のことも、他のことも」
「ああ……」
 そう言葉を交わすと、弘文は図書館の中に入っていった。その背中を見送ると、彼は大きくため息を吐く。
 今までひたすらに画家になるために突っ走ってきたが、最近彼は自分でも薄々気付いていたのだ。自分の絵はありきたりで、これといった取柄もないということに。そして、彼は今、走るのを止めようとしていた。
 ……今年の就職ももう無理だし、しばらくバイトして生活するのも悪くないかな
 彼はそんな風に考え始めていた。
 再び教室に向かって歩き始めようとした時、彼は両足に妙な違和感を感じた。やけに重く、あまり感覚もない。彼は奇妙に思いながらも、その脚を動かして教室に向かった。

 一日を終え、彼はいよいよ動かなくなってきた両足を引きずるように家に帰ってきた。
「なんだよ、一体……痺れてるってわけでもないのに……」
 やっとのことでベッドの上に腰を下ろしながら、彼は忌々しげにそう呟いた。両足の膝から下は、もはやほとんど感覚がなく、動かそうとしても足の指がピクピクと痙攣するように動くだけだった。
 ふくらはぎの辺りをマッサージするように揉んでみると、やけに冷たくなっているのが分かった。更に、膝の関節の辺りがギシギシと嫌な音を立てている。
 とりあえず、少し横になって休めば直るかな……
 そう考えて、彼は両足をベッドの上に乗せようとして、脚を浮かせた。その瞬間、左足が膝の付け根からポロリと外れ、床の上に倒れた。
「え……?」
 彼は床に倒れた自分の脚と、それが本来付いているはずの自分の膝を何度も見比べた。まるでプラモデルの脚が取れてしまうように、いとも簡単に自分の脚が取れてしまったのだ。
 彼は自分の脚を床から拾い上げた。かなりの重みがある。
 人の体ってのは、重いもんなんだな……
 そんなことを考えながら、彼はその千切れた脚の断面と、自分の膝の断面を観察した。
 痛みは全くなく、断面からは血も出ていない。骨の付け根が剥き出しに見えていて、その周の肉の断面からは血管や神経などが飛び出している。
 彼はその脚を付け直そうと、自分の膝に断面をあてがってみたが、簡単に取れた割には全く元通りになる気配がない。
「まいったな……これじゃあ歩くこともできないじゃないか……」
 彼はベッドから降りると、床を這うようにして壁際の棚の前まで進んだ。手を伸ばし、瞬間接着剤を取ろうとして、彼はその手を止めた。
「いやいや、僕はバカか?人間の体が接着剤で付くわけがない」
 ブツブツと独り言を言いながら、彼はどうすべきなのか考えた。
 だが、あまりに現実感のない状況と、冗談のような自分の脚が、彼から正常な思考を奪っていた。
 考えがまとまらない内に、彼はふと自分の膝の断面を見直し、あることに気が付いた。少しずつだが、血が染み出してきている。ちょうど、ステーキを焼くと表面に肉汁が染み出してくるように、粒々と血液が染み出てきたのだ。
「ああ……まずいな……とりあえず血を止めないと」
 棚から荷造り用のビニール紐を見つけて、彼はそれを脚の断面の少し上にきつく結びつけた。そうしている内に、今度は取れた方の脚が段々と紫色に変色していっていることに気が付く。
 この脚はもう使えないな……
 直感的にそれを理解すると、彼はようやくあることを考えついた。
 ベッドから布団を引き摺り下ろすと、まずはカバーを外して、その布を適当な大きさに切り、取れた方の自分の足とぴったり同じ大きさと形をした、大きな靴下のような袋を作った。
 次に、以前工作用に買ってきた長い竹の棒を適当な長さに切り、その袋の中に芯として入れ、布団から取り出した綿を袋と竹の隙間にぎっしり詰め込んでいく。
「これで脚が完成した」
 それを自分の膝にあてがうと、布と自分の皮膚を縫い付けていく。彼は元々手先が器用なので、取れないようにしっかり縫い付けることができた。
 しかし、それが終わる頃、今度は右足が膝のところから外れてしまったので、彼はさっきより手際よく右足も作って縫い付けていく。
 両足を着け終えると、縫い跡と、膝から下の色が違うのを隠すために絵の具で肌色を塗って仕上げをする。
「うん、中々良い出来じゃないか」
 彼は自分が作り直した両足を眺めながら、満足げにそう言うと、勢い良く立ち上がった。新しく買った靴を履いて試しに歩くように、部屋の中をぐるぐると歩き回ってみる。
「ちょっと違和感はあるけど、動ける、動ける」
 こうして彼は両足を失う危機を脱することができた。新しい脚を手に入れると、彼は古い脚を燃えるゴミのゴミ袋に投げ入れた。

 翌日、彼は新たな脚で学校に行き、新たな脚でバイトを終えて、家に帰ってきた。ポストの中に入っていた一通の封筒を手に、彼の心中は穏やかではなかった。その封筒は彼の父親から送られてきたもので、中に入った一枚の手紙の文頭には、太字で『絶縁状』と書かれていた。
 彼の家は元々父子家庭だった。彼が幼い頃、母親が彼と父親を捨てて他の男と逃げたのだ。だが、彼はその時あまり悲しまなかった。自分が母親から愛されていなかったのを感じ取っていたからだ。
 しかし、母親が逃げたのを機に、今まで自分を可愛がってくれていた父親の性格が一変した。何かとすぐに彼を殴るようになり、酒の量は日に日に増え、飲めば殴り、酒が切れれば殴りの繰り返しだった。
 それでも、彼を大学に行かせてくれたのは、父親としての心が多少なりとも残っていたからなのだろうか。しかし、大学4年になり、彼が画家になるために就職をしないということを話すと、父親は激怒して、
「こんな落書きで食っていけるか!」
 と怒鳴りながら彼の絵を引き裂いた。その行動に彼も憤慨し、激しい口論から殴り合いの喧嘩になり、遂に彼は家を追い出されてしまったのだ。
 そして今、その父親がご丁寧に絶縁状まで送りつけてきたというわけだ。その内容は、彼の非難から始まり、彼の侮蔑に終わっていた。
 そんな彼の心中が穏やかであるはずはなく、絶縁状の内容だけでも怒り狂うに十分であるにも関わらず、父親の言った通り自分が画家の道を諦めようとしているという現状が更に彼を激怒させたわけである。
 彼はイライラと貧乏ゆすりをしたり、部屋の中を荒々しく歩き回ったりしていたが、やがて彼の怒りの矛先は、ふと目に入った大きな白いキャンバスに向かうことになった。
「くそっ!こんなもの!」
 イーゼルを蹴り倒すと、彼はキャンバスを拾い上げて何度も殴りつけ、踏みつけた。キャンバスは布が剥がれ、木の枠が折れ、いくつもの破片に壊されていく。
 そして最後に、彼は残った一番大きな破片を力任せに殴りつけた。破片は飛んで壁にぶつかる。
 だが、その時、キャンバスの破片と一緒にあるものも飛んで壁にぶつかり、鈍い音を立てて床に落ちた。
 それは紛れもなく、肩から外れた彼の右腕だった。
「今度は右腕か……」
 何度も殴った動きが身についているせいか、床の上で芋虫のようにビクビク動いている右腕を見ながら、彼はため息を吐いた。
 何にしても、利き腕を失うのは得策ではないと考えた彼は、再び自分で部品を作ることを決意した。
 だけど……腕はともかく、手は複雑で難しいな……
 そんなことを考えながら、とりあえず脇の辺りから肩口を縛って止血をしておく。肩の断面からはみ出した何本かの神経が、床に落ちた腕が動くのと連動するようにウネウネと動いていたが、腕の動きが止まる頃にはそれも止まっていた。
 左手と口で腕の創作に取り掛かった彼は、まず針金を何本か組み合わせて、関節や手首が稼動するように手の形を作っていった。その骨組みをゴム手袋の中に入れて、隙間をやはり綿で埋めていく。
 その手を、脚と同じ要領で作った腕と縫い合わせると、出来上がった右腕を肩に縫い付けていった。そして、脚の時と同様、仕上げに色を塗って接合部分を隠す。
「これでよし。どれどれ……」
 彼はそう言いなが+ら、自分の新しい右手でグーを作ったりパーを作ったりしてみた。
「なんとなくぎこちないけど、後は慣れかな」
 そう言って、彼は満足げに自分の新たな右腕を見た。しかし、油断すると指の関節が逆方向に曲がったりしてしまうため、この日彼は寝るまで手を動かす練習をした。
 ベランダで、風車の回る音が忙しく鳴っていた。
 その日の夜、いつも以上の大雪が降った。

 翌朝、彼は目覚めると、外の景色を見て驚いた。見渡す限りが、今度は例外もなく、真っ白な雪に包まれていた。この年一番の積雪量であることは間違いなさそうだ。
 大きな雪が未だに降り続いている。その真っ白な世界の中で、真っ赤な風車が相変わらず風に吹かれてカラカラと回っている。
 しばらくそれを眺めた後、彼は使いこなせるようになった新たな右手で服を着替えると、学校へ行くために家を出た。
 しかし、駅までの道のりは思いがけず困難なものになった。というのも、雪が膝の辺りまで積もっているのである。それだけならまだしも、彼の両足は布と綿なので、歩く度に水を吸い込み、重くなっていく。
 ようやく雪かきがされた大きな道路に出ると、彼はほっと息をついて自分の両足を絞った。水が流れ出て、脚が元通り軽くなる。ジーンズと靴がびしょ濡れだが、両足には感覚がないので気にならなかった。
 駅前に着くと、例のおじさんが話し掛けてくる。
「すごい雪だな」
「まったくですね」
「小学生の子供が親に殺されたそうだ」
「それはかわいそうに。それじゃあ、行ってきます」
 いつものように名前も知らないおじさんに立ち止まることなくそう挨拶すると、彼は電車に揺られて学校に向かった。
 学校に着き、いくつか授業を終え、昼休みになると、弘文が彼を見つけて近付いてきた。
「アズマ、飯まだだろ?一緒に食おう……って、お前、そのジーンズどうしたんだ?」
 そう言われて、彼は自分の足を見下ろした。ジーンズの膝の辺りが赤黒くなっている。彼は慌ててごまかした。
「いや、これは、なんだろう?ちょっと、トイレに行って見てくる!」
 そう言うと、彼は弘文が声をかけるのを無視してトイレに駆け込むと、個室の中でジーンズを脱いだ。思ったとおり、膝から血が流れ出している。
 恐らく、今朝水を吸って重くなったことが原因で、縫い目が緩くなったに違いない。彼は流れつづける血を慌ててトイレットペーパーで拭き取ると、こんな時のためにカバンに入れておいた裁縫道具で、脚をしっかりと縫い直した。
 それから、ジーンズに付いた血をできるだけ洗い流すと、彼は一安心して食堂で待っているであろう弘文の所に向かった。
「大丈夫だったか?」
 予想通り食堂にいた弘文は、彼の姿を見てそう聞いた。
「ああ、今朝転んで擦りむいたところから血が出てただけだったよ」
「おいおい……結構な量だったけど、大丈夫か?」
「もう止まったから、大丈夫だって」
「そうか……?まあ、それなら良いや。ところで、明後日お前の家に泊まっても良いか?酒持ってくから、一緒に飲もうぜ」
 彼はその弘文の提案に賛成し、その後昼食を済ませて、再び授業に向かった。
 学校が終わると、彼はその足でバイトに向かう。父親に絶縁されたのが四年次分の学費を振り込んだ後だったから良かったものの、生活費は自分で稼がなければならないので、彼はいくつかバイトを掛け持ちしていた。
 その日のバイトも何とか終わり、疲れて帰ろうとしたとき、後輩の女の子が突然話し掛けてきた。
「あの、東さん、今日ってこれから忙しいですか……?」
 この女の子は橋本恵子(はしもとけいこ)といい、彼より年下で、このバイト先の男たちから絶大な人気を集めている美少女だ。彼はそんな可愛い子に話し掛けられて、少し動揺しながら答えた。
「いや、これから帰るだけだけど……どうして?」
 彼が聞き返すと、恵子は恥ずかしそうに下を見ながら言った。
「あの……もし良かったらなんですけど、今日、これから家に遊びに来ませんか?」
 彼は自分で心臓が飛び上がるのを感じた。何故恵子みたいな子に自分が誘われるのか、彼は不思議でならなかった。
「え?……う、家って、恵子ちゃんの家に?今から?」
「あ、あの、嫌なら良いんですけど……」
 恵子の対応が一歩引いたのを感じて、彼は慌ててそれを否定した。
「嫌なんてことは、もちろんないよ!」
「それなら……是非……」
 彼は唾液を空気と共に飲み込み、無言で頷いた。既に十時を回っている。この時間に家に呼ぶということは、泊まっていくことになる。女が男を家に泊めるということは、それは何もなく済むはずもない。恵子も子供じゃないのだから、それを承知で誘っているに違いなかった。
 案内されるままに恵子の後をついていき、彼は本当に恵子の家に上がり込むことになった。それからと言うもの、行為に至るまでにそう長くはかからなかった。
「恵子ちゃん……本当に僕なんかで良いの?」
 恵子を下着姿にまで脱がせた時、彼は一旦手を止めて確認した。恵子がコクリと頷く。
「東さんって、ちょっと変わってるところがあるけど、優しいし……私は好きです」
 その言葉が、俄然彼のやる気を引き出した。これまで彼は女性経験がなかったが、そんな不安よりも欲望が圧倒的に先立っていた。
 しかし、自分も服を脱ごうとして、彼ははっと思い出した。
「恵子ちゃん、電気消しても良い?」
 そう聞かれて、恵子は一瞬キョトンとした後、小さく頷いた。
「良いですよ。東さん、恥ずかしがりなんですね」
 本当はそうではなく、電気が点いていた方が恵子の体が良く見えて良いのだが、さすがに裸になって見られれば手足のつなぎ目が分かってしまうので、彼は仕方なく電気を消した。
 そして、彼は情欲の赴くままに恵子を抱いた。しかし、行為も終盤に差し掛かり、恵子の中で絶頂を迎えようとしたその時、予想外の事態が起きた。彼の男性器が恵子の中で取れたのである。
 彼はそれに気付き大いに慌てた。どうやら、まだ恵子は気付いていないようだが、気付かれる前に事態を収拾する必要があった。もう既にある程度は闇に目が慣れているため、とにかく見られるわけには行かない。
 彼はまず脱ぎ捨てたシャツを恵子の目に巻き付けて目隠しをした。疑われるかと思ったが、
「東さん、こういうのが好きなんですね。意外……」
 と、恵子は勘違いしたようなので、それはそのままにしておいて、彼は自分の男性器を回収しようとした。しかし、中に埋もれていて中々取り出すことができない。
 ようやく取り出すと、彼は急いで服を着て、ジーンズのポケットに男性器を隠すと、恵子の目隠しにしていた自分のシャツを取った。
 服を着ている彼を見て首を傾げる恵子に、
「ごめん!ちょっと緊急の用事を思い出して。本当にごめん!」
 とだけ言って、逃げ出すように恵子の家を飛び出す。
 しかし、問題はそれで解決したわけではなかった。いつもと違い、血が大量に巡っていた部分が取れたせいか、ジーンズの中で血が流れ出ているのである。
 近くの公衆トイレに駆け込んで、何とか出血を止め、今日二度目にジーンズを洗うと、彼はようやく一息つくことができた。
 幸い、電車がまだ出ている時間だったため、なんとか家に帰ることができた。
 帰りがけに、近くの二十四時間営業のスーパーに寄って、何か代用品を探した。最初に目に付いたのは野菜類だ。
「いや……生ものはさすがにまずいな……」
 そんなことを呟きながら彼はしばらくスーパーをウロウロしていたが、結局適当な物がなく、家に帰ってからコンドームに粘土を詰めて代用にすることにした。

 次の日はさすがに気分が落ち込んだ。何しろ、せっかくの恵子との至福の時が台無しになってしまったのだ。
 だが、その中でも救いになるのは、今日は休日でどこにも行かなくて良いということと、恵子が自分に好意を持ってくれている、ということだった。
 恵子ちゃんなら、きっと幻滅したりしないで、分かってくれる……
 そう思うことで、多少は気持ちも楽になった。
 目が覚めてからもしばらく布団の中でいじけていた彼は、少し気分が落ち着いてきたので、少しずつ部屋の中を片付け始めた。この日、午後から弘文が来ることになっているのだ。
 片付けを進める内に、彼は部屋の隅に置いてあるゴミ袋に気が付いた。一瞬何が入っているのか考えた後、彼ははっと思い出した。その中には、彼の両足と右腕が入っているのだ。ゴミの収集日に出し忘れて、そのまますっかり存在を忘れていた。
 彼は恐る恐るゴミ袋に近付くと、そっと中を覗き込んだ。今まで気付かなかったのが不思議なほどの異臭を感じる。そして、中に入っている脚と腕は、紫とも青とも緑ともつかない色に変色していて、うじ虫がわいていた。
 こんな物を部屋の中に置いておくわけにはいかなかった。万が一弘文に見られるようなことがあれば、驚くなんてものではないだろう。
 だからと言って、収集日でもない今日、外に出しておけば逆に目立って誰に見られるとも限らない。そうなれば警察沙汰になってしまう。
 彼は袋の口をきつく縛ると、とりあえずそれをベランダの隅に出しておくことにした。さすがに、人の家のベランダにあるゴミ袋を開けて、中を見ようとする人などいないだろうと考えたのだ。
 窓を開けると、風車の回る音が聞こえる。今まで気付かなかったが、どうやら雪はもう止んだらしかった。
 彼はそのまましばらくカラカラと回る真っ赤な風車を見ていたが、急に寒さに気付いたように身震いすると、ゴミ袋を放り投げて、さっさと部屋の中に戻って窓を閉めた。
 それから彼は思い出したように画材道具を押し入れの奥にしまい込んだ。この数日、彼は絵を描きたいと思うどころか、絵のことを考えることすらなかった。もはや、それらの物は出しておくだけ邪魔な物となってしまったのだ。
 それから特にすることもなく、彼はテレビを眺めながら弘文が来るのを待った。
 ようやく弘文がやって来たのは、日が傾きかけた頃だった。呼び鈴にドアを開けると、弘文はビールとつまみの入ったビニール袋を軽く持ち上げて見せた。
「よう、ちょっと遅くなった。お邪魔するぞ」
 そう言いながら部屋に上がり込むと、弘文は彼の部屋を見て目を丸くした。
「なんか……すっきりしたな、お前の部屋。前は、ほら、キャンバスとか絵の具とかが転がってて、汚かったのに」
 弘文にそう言われて、彼は頭を掻いた。
「絵に関係するものは片付けちゃったから……。この方が部屋も広いし、良いだろ?」
「ふ〜ん……」
 弘文は特に何も言わずに窓を少し開けると、適当な場所に座り込んでタバコに火を付けた。彼はタバコを吸わないが、弘文が以前来たときに窓を開ければ吸っても良いと伝えてあったからだ。
「まあ、とりあえず飲もうぜ。せっかく冷えてるやつ買ってきたんだ」
 弘文にそう言われて、彼も適当な場所に座り、二人でビールの缶を開けた。
 それからしばらくとりとめもないことを話しながらビールを飲む内、ふと外に視線を向けていた弘文が呟いた。
「風車か……」
 その言葉に、彼も弘文の視線を追うと、ベランダの物干し竿の辺りに付いている真っ赤な風車が目に付いた。
「ん?ああ。ちょっと前に、何となく買ってきたんだ」
 彼らがそう話している間も、風車は不規則に回り続けている。弘文は彼のその言葉を聞いても、返事をせずにしばらく風車を眺めていた。
「どうかしたのか?」
 彼がそう聞くと、弘文はようやく視線を彼の方に戻した。
「いや、今思ったんだけど、風車って変な物だよな」
「変?何が?」
 彼の問いに、弘文は少し考えてから答えた。
「なんて言ったら良いか……風車っていうのは、人間が作るものだろ?」
「それはそうだ。それのどこが変なんだ?」
「まあ、話は最後まで聞けよ。だけど、風車は風があたらないと回らない。人間が作った人工物なのに、気まぐれな自然の風で回るんだ」
 彼は視線を風車の方に向けた。風に吹かれてカラカラと音を立てている。
「確かに、それはそうだな……」
「風車を人間が回してみたところで、その行為は無意味で虚しい行為だ。人間の手で作られたのに、人間の手で動かしても意味のないもの。自然の力で動く人工物。そういうのって、あんまりないよな。だから、ちょっと変な物だな、と思っただけだ」
 弘文が話している間、彼はずっと風車を見ていた。その場所に風車を付けてからしばらく経つが、彼はそんな風に考えてみたことはなかった。
「僕はそんなこと思ってもみなかったけど、確かに、言われてみれば少し変かも知れない……」
 彼はそう言いながら立ち上がると、ベランダに出て風車を取り外そうとした。手に持って良く見てみたかったのだ。
 しかし、風車を外そうと両手を上に伸ばした時、不意に残っていた左腕が取れそうになった。彼は慌てて手を下げてグラグラしている左腕を押さえようとしたが、逆に急に腕を下げたために左腕は取れて、ベランダから落ちていきそうになった。
 それを止めようと、彼も慌ててベランダから身を乗り出し、右手を伸ばして左腕をキャッチした。その瞬間、左腕の想像以上の重さに彼はバランスを崩し、キャッチした左腕ごと宙に投げ出されてしまった。
「アズマ!」
 部屋の中で弘文が叫ぶ声が聞こえた気がした。その次の瞬間には、彼は3階分の距離を落ち、地面に叩きつけられた。
 だが、彼は意識があった。痛みも多少あり、全身が痺れたようになって動かなかったが、特に命に別状はなさそうだ。
 動けないので動かないでいると、弘文が階段を駆け下りて来るのが見えた。
「アズマ!おい、アズマ!大丈夫か?ひ……左腕が……」
 弘文の言葉を聞いて、彼は左腕が取れていることを思い出した。弘文にしてみれば、落下の衝撃で取れたように見えることだろう。
 弘文は全く動かない彼を見て、心臓に耳を当てた。
 大丈夫だって……弘文、僕はちゃんと生きてる……
 そう言おうと思ったが、まだ口も思うように動かない。しかし、顔を上げた弘文は、顔面蒼白になって予想外のことを呟いた。
「心臓が……止まってる……」
 その言葉に、彼は恐らく弘文以上に驚いたことだろう。
 そんなはずはない……僕は生きてる!
 彼はそう思ってから、はっと気が付いた。
 そうか……左腕の次は、今度は心臓が壊れたんだ。そうに違いない!
「待ってろ!今救急車を呼んでやるからな!」
 そう言って弘文が立ち上がろうとするのをみて、彼は何とか起き上がろうと力を込めた。そして、弘文が背中を向けた時、ようやく体が何とか動くようになり、彼は上半身を起こすことができた。
「ま……ごほっ……待って、弘文」
 彼がそう言うと、走り出そうとしていた弘文が振り返った。彼の姿をみて、弘文はとんでもなく驚いたという表情を見せた。
「アズマ!大丈夫なのか?」
「ああ……救急車は呼ばないでくれ。僕なら平気だ」
 彼の言葉に、弘文は再び彼の傍らに屈み込んだ。
「平気って……お前、左腕が千切れてるんだぞ?」
「分かってるよ……それより、その左腕を拾って、肩を貸してくれないか?部屋まで戻りたいんだ」
 彼にそう言われて、弘文は恐る恐る左腕を拾い上げると、立ち上がった彼に肩を貸した。そうしてなんとか階段を上がり、部屋に戻った頃には、彼は体の自由をほとんど取り戻していた。
 弘文は、さも不気味そうに彼を見ながら尋ねた。
「本当に大丈夫なのか?その左腕、どうするんだ?」
「ああ、こんなのいつものことなんだ。すぐに代用品を作れる。それより、ちょっと協力して欲しいんだ」
「いつものことって……お前……」
「心臓がまだ止まったままなんだ。だから、そっちから先に直さないと……」
 彼の言葉に、弘文は目を丸くして、再び彼の心臓に耳を押し当てた。弘文の表情がみるみる青ざめていく。
「お……お前……なんで生きてるんだよ……」
「だから、体の部品が壊れるなんていつものことなんだ。もう仕方ないから弘文には話すけど。嘘だと思うなら、ベランダに置いてあるゴミ袋の中を見てみるといい」
 弘文は後ずさりするように彼から離れると、ベランダにあるゴミ袋の結び目を解き始めた。その間に、彼は心臓の代わりになる物を探す。
「うわあああ!な、なんだよこれ!」
 しばらくすると、ベランダから弘文の悲鳴が聞こえた。
「僕の右腕と、両足だよ」
 ベランダで尻餅をついている弘文が、窓の外からこちらを怯えた表情で見ている。
「じゃあ……お前、その手と足は……?」
「触ってみれば分かると思うけど、布とか、綿とかでできてる。そんなことより、僕は右腕しか使えないんだから手伝ってくれよ。良い物を見つけた」
 そう言って彼が取り出したのは、浮き輪などに空気を入れるときに使う小さいポンプだ。それから、彼は弘文が這うように部屋の中に戻ってくる間に台所から包丁を取り出す。
「お、お前……それでどうするつもりだよ……」
 彼自身はまだ気付いていなかったが、このとき既に弘文が彼を見る目は、何かとんでもない化け物を見ているような恐怖に覆われていた。
「どうするって、心臓を付け替えるに決まってるじゃないか」
 そう言うと、彼は自分の胸の中心に包丁を突き刺した。だが、その手がそこで止まる。
「ああ、ここでやったら部屋中が血だらけになるな。風呂場でやるから、弘文も来て手伝ってくれよ」
 そう言うと、彼は包丁が胸に刺さった状態のまま風呂場に入っていった。弘文も、立ったまま夢を見ているようなおぼつかない足取りで後に続く。
 彼の家はユニットバスになっているので、彼は浴槽の中に入ると、屈み込んだ。それから包丁の柄を改めて掴み、胸から腹まで一気に切り裂いた。同時に大量の血が噴出し、浴槽や壁が朱色に染まっていく。
「あ……あ……」
 弘文は口をパクパクさせながら、呆然とその光景を見つめる。
 それから彼は切った部分を掴んで広げると、肋骨の下に差し込むように右手を突っ込んだ。
「ん……?あ……これかな?」
 しばらく自らの体内を探った後、彼はそう言いながら心臓を引っ張り出した。右手に心臓を掴んだ状態のまま、彼は弘文の方を見た。
「悪いけど、ちょっと包丁を持って、この血管を切ってくれないか?」
 弘文はビクッと体を震わせ、首を横に降った。
「む、無理だ……死んじまうぞ……」
「何言ってんだよ。もう止まってるんだよ?この心臓。切り取っても大丈夫さ」
 弘文の言葉に、彼は笑顔でそう答えた。
弘文は何か抵抗しがたい雰囲気を感じて、震える手で包丁を掴むと、彼の指示通りに繋がっている血管を切っていった。血管を切断するたびに、血が弘文の顔にかかる。
 失神する寸前でその作業を終えると、弘文は床に座り込んだまま、呆然と体内にポンプを埋め込む彼を見守った。それが終わると、彼は切り裂いた肉を丁寧に縫いつけていく。
「よし!ほら、これでもう大丈夫」
 そう言いながら立ち上がると、彼は弘文に向かって縫合された胸を叩いて見せた。
 弘文は目を見開いたまま何度も首を左右に振り、しばらく声を出そうと口を動かした後、ようやく搾り出すように言った。
「お前……何?」
「え?」
 彼は眉をしかめた。弘文が続ける。
「それ……お前……もう人間じゃねぇよ……そんなの、人間じゃねえ!」
「な……何言って……おい!ひろふ……」
 彼の言葉を最後まで聞かず、弘文は必死の形相で悲鳴をあげながら部屋から駆け出して行ってしまった。
 彼はしばらく硬直して弘文が出て行ったドアを眺めていたが、やがてぽつりと呟いた。
「弘文のやつ、何をバカなことを……僕が人間じゃないだって?……僕は、人間だ。僕は……」
 僕は……ナンダ……?

 その日から、彼の体は次々に壊れていった。残っていた膝から上の太ももの部分。ありとあらゆる内臓。数日後には、首から上以外はすべて『自作』の体になっていた。
 そして、日が経つに連れて、彼は言い知れぬ不安感と苛立ちを募らせていた。
 僕が人間じゃない……?そんな馬鹿な……僕は人間だ。自分で分かっている。
 弘文に言われた言葉が日増しに彼の中で大きくなっていく。
 彼は、以前読んだ小説のことを思い出していた。ある日、悪夢から目覚めると、自分が毒虫の姿になってしまうという話だ。
 主人公の名は……そう、ザムザだ。
 ザムザは毒虫の姿になっても、自分が人間であるという意識は持っていたはずだ。それならば、それは果たして人間なのか。それともやはり毒虫なのか。彼はそんなことを部屋の中でぼんやりと考えていた。
 風車がカラカラと回っている。
 外は少し雪が降っている。
 彼は着替えると、学校に向かった。駅に着くと、おじさんが話し掛けてくる。
「明日は晴れると良いな」
「……」
「この近くて火事があったらしい」
「……」
 答える気にはなれず、彼はそれを無視して無愛想におじさんの前を通り過ぎた。そしていつものように電車に揺られ、学校へ行く。
 全ての授業を終え、帰ろうとした時、彼は弘文の後姿を見つけた。小走りに追いかけ、弘文の肩に手を置いた。
 弘文は振り返って僕の顔を見ると、眼球を剥き出しにして震え始めた。そして、後ろに数歩よろけると、尻餅をついてしまう。
「大丈夫か?ひろ……」
 そう言いながら彼が手を伸ばすと、弘文は恐怖に歪んだ表情で彼の手を払いのけた。
「触るな!ち……近付くな!化け物!」
 そう叫ぶと、弘文はよろけながら立ち上がって逃げ出してしまった。周囲の視線が彼に集中する。居たたまれなくなり、彼もすぐにその場を逃げ出した。
 その後、彼はバイトに向かった。休もうかとも思ったが、今日は恵子が居るバイト先だ。恵子ならば、きっと自分を癒してくれる。彼はそう考えたのだ。
 バイト先に着くと、ちょうど恵子が同僚の女の子と話しながらこちらに歩いてきた。
「恵子ちゃん……」
 彼がそう声をかけると、恵子は立ち止まって軽く会釈をした。
「東さん、おはようございます。このあいだはどうも。……じゃあ」
 他人行儀にそう言って、恵子はその場を立ち去ろうとした。彼は慌ててそれを引き止める。
「恵子ちゃん。今日……また行っても良いかな……」
「すみません。今日は予定があるので。それじゃあ」
 その妙に冷たい態度に、彼は奈落に落ちるような不安を感じた。自分の前を通り過ぎた恵子を振り返り、その肩を掴んだ。
「ちょっと待って、恵子ちゃん!」
 突然、恵子は振り返りながらその手を叩き払った。
「気安く触んないで!一回遊んでやったぐらいで、調子に乗ってしつこくつけ回さないでよ!この不能野郎!」
 そう言い放つと、恵子は同僚の女の子に彼に対する悪態をつきながら去っていった。
 決定的な何かが、彼の中で音を立てて崩れた。
 彼はそのまま逃げるように家に帰ると、絶望に打ちひしがれて玄関先で屈み込んだ。両目から涙がこぼれ落ちた。そのまましばらく泣いていると、不意に涙と共に彼の右目の眼球がこぼれ落ちてきた。
 彼が重い腰を上げて右目の代わりにガラス玉を入れると、待っていたと言わんばかりに今度は左の眼球が抜け落ちる。
 それから耳が削げ落ち、とうとう顔面の皮が完全に剥がれ落ちてしまった。
 彼は粘土で人の顔を作り、それを顔に取り付けた。もはや、彼の外見には『彼』を断定できるものがなくなった。
 鏡を覗き込みながら、彼は両膝を床に付いて、しばらく呆然とした。
 ザムザ……あなたは何故変身した……?
 彼は立ち上がると、自分の顔面と、両目と、両耳を大きな瓶の中に入れ、それを防腐剤で満たし、いわゆるホルマリン漬けの状態にした。
 それは……あなたが誰からも必要とされなくなったからじゃなかったか……?
 それが終わると、彼は再び何時間も呆然と立ち尽くした。ふと、押し入れの奥にキャンバスが見えて、彼はそれを引っ張り出してきてイーゼルに立て掛けた。
 世界から必要とされなくなったからじゃないのか……?
 しばらく白いキャンバスを見つめた後、彼はふと窓の外に視線を向けた。風車が冷たい風に吹かれてカラカラと回っている。そして、白い雪が舞う。
 じゃあ……僕は一体何なんだ?
 彼は更に押し入れの中から絵の具や筆を取り出し、キャンバスの周りにばら撒いた。
 僕が作ったこの体を、僕自身が動かしてみても虚しいだけ……本来は自然物として動いていてこそ意味がある……僕のこの体は、僕が作った物なのに、僕が動かしても意味がない……
 彼は全ての絵の具を床の上にぶちまけた。
 僕は……
 そして、一心不乱にキャンバスの上に筆を走らせる。
 風車だ……

 次の日、朝目覚めると、耳や目や鼻からドロドロした液体が流れ出てきていた。生臭く、腐食した匂いがする。脳が溶けて流れ出したのだ。心臓が止まった時、血液が行き渡らなくなり、既に壊れていたのだろう。
 彼は起き上がり、溶けた脳を洗い流すと、こんなこともあろうかと大きいボウルに固めに作っておいたゼリーを冷蔵庫から取り出した。
 かなづちとマイナスドライバーで頭に穴を開けると、空洞になった頭の中にゼリーを置いて、穴をふさいだ。
 それからノロノロと着替え始める。窓の外では風車がカラカラと回っている。
 今日も雪が降る……
 着替え終わると、彼は家を出た。前日までの雪が残る地面を歩き、駅前に差し掛かる。ホームレスのおじさんが懲りずに話し掛けてきた。今度はにこやかに答える。
「今日も雪になりそうだな」
「リンゴが好きです」
「有名な政治家の不倫が発覚したそうだ」
「風邪を引いたのなら、ゆっくり休んでくださいね」
 彼はそう言いながら、やはり立ち止まらずに駅の中に入っていった。定期を改札に通して、満員電車に揺られ、電車を乗り継ぎ、学校に着く。
 教室に向かう途中、再び弘文を見かけた。彼は諦めずにもう一度弘文の肩を叩く。弘文は振り返ると、眉をしかめた。
「え、誰?」
「あ、百円がない」
「は?何言ってんだ?俺の知り合い?」
「今日は空が青い」
「……お前、大丈夫か?」
「少しなら良いけど」
「なんなんだよ……気持ち悪いな。あっち行けよ」
 そう言うと、弘文は早足で彼から遠ざかっていった。
 弘文……やっぱり僕だって分からないか……
 彼は歩いていく弘文の背中を見ながらそんなことを考えた。ふと、弘文が立ち止まってこちらを振り返った。そして、不思議そうに首を傾げると、再び歩き始める。
 彼はがっかりしながら教室に向かい、その日の授業を受け終えて、帰路についた。電車に乗り込む頃には、空に灰色の雲がかかり、かなり雪が降り始めていた。
 そして、駅に着いて彼が外に出たときにはいよいよ本格的に雪が降っていて、辺り一面が真っ白に見えていた。
 急いで家に帰ろうと思ったが、彼はふと、珍しくホームレスのおじさんがまだいることに気が付いた。そして、はっと今朝のことを思い出す。
 あのおじさん……なんで話し掛けてきたんだ?僕のことが分かった……?
 彼はおじさんの方に歩み寄ると、初めておじさんの前に立ち止まった。
「明日は水曜日だから……」
 おじさんに話し掛けて、彼は途中で口をつぐんだ。その時初めて、言おうとしている言葉と、実際に言っている言葉が違っていることに気が付いたのだ。
 何言ってるんだ……僕は……
 おじさんは居眠りをしていたようだったが、目の前で声がしたので薄っすらと目を開けた。
「ああ……毎朝通る人だ」
 おじさんは視線を落としたまま、彼の顔すら見ることなくそう言った。
「コーヒーは!音楽がうるさい!」
 おじさん!僕が誰だか分かるの?
 彼はまた全然関係のないことを言ったことに気付き、首を降った。
「あ?何言ってんだ?」
 彼は再び何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。どうせ正しい言葉は出てこないからだ。そこで、カバンから紙とペンを取り出し、上手く動かない手で「どうして僕が分かる?」と書いておじさんに見せた。
「ああ、俺は靴であんたを見分けてたんだ。いつもここに座ってるから、わざわざ視線を上げるのが面倒だからな」
 期待していた答えと違ったので、彼はがっくりと肩を落とした。だが、せっかく彼を彼自身だと分かる人物がいるので、彼は今度は紙にこう書いた。
「おじさんは、僕が何だか分かる?」
 紙を見て、おじさんは首を傾げた。
「妙なことを聞く人だな、あんた。『何』ってのは人間に使う言葉じゃないじゃないか」
 そう言いながら、おじさんはゆっくり立ち上がって、彼の顔を見た。そして、すぐに目を細めて首を振った。
「あんた、もう死んでるよ。死んだ人間のことなんて、俺は何にも分からねえ」
 そう言うと、おじさんはさっさとその場を去ってしまった。
 僕が……死んでる?……ああ……そうか……死んでるのか……
 彼はそのままフラフラと家に向かって歩いていった。何か、妙に納得した気分になっていた。確かに、脳がゼリーで生きてるわけはなく、もう死んでいて動いていれば、それは人間じゃない。
 そして、死んでいるものを動かしてみたところで、それはとても虚しい行為だ……
 そんなことを考えながら、彼はアパートの前の通りまで辿り着いた。しかし、突然足がもつれて、彼は数歩よろけて道路に飛び出した。
 瞬間、車が彼の体を跳ね飛ばした。彼の体は宙に浮き、アパートの庭の小さな茂みの中に落ちた。
 車の急ブレーキの音。ドアが開く音。ドアが閉まる音。そして、車が発信する音。
 轢き逃げか……まあ、これじゃあ見られない方が良かった……
 彼の体は跳ねられた衝撃でバラバラになっていた。両手両足と頭が胴体から外れ、その胴体も中からポンプやらホースやらが飛び出している。だが、血液は一切出ていない。恐らく、既に全て流れ尽くしていたのだろう。
 さすがにこれじゃあ、直すことはもちろん、動くこともできない……
 そう思い、彼は静かに眼を閉じた。
 ふと、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。目を開くと、自分の部屋の中が見えた。だが、なぜか歪んで見える。
 ああ……そうか。ホルマリン漬けになってる方の目で見て、耳で聞いてるのか……
 家のドアが開く音がした。どうやら、鍵が開けっ放しだったらしい。
「アズマ!」
 そう言いながら家に入ってきたのは弘文だ。弘文は家の中を見回して、こちらを見てギョッとした。聞こえるし、見えるが、どうやらさすがに話すことはできないようだった。
 弘文はしばらくこちらを気味悪そうに見ていたが、すぐにまた家の中に視線を巡らした。そして、イーゼルに立て掛けられたキャンバスに目を止めた。
「風車……」
 弘文が呟く。
 そう。キャンバスには『僕』が描いた、真っ白な雪の中に立つ、真っ赤な風車が描かれていたのだ。
「やっぱり……あれは……」
 弘文は窓を開けると、外を見回した。その位置からなら、茂みの中にある僕の体も見えるはずだったが、雪が積もりつつあったので弘文は気付かなかったようだった。
「アズマ!」
 弘文はもう一度だけそう叫ぶと、諦めたように部屋から出て行った。
 弘文……僕はもう、ここにはいないんだ……
 外の茂みの中に倒れている僕の体は、いよいよ雪に埋もれ、全く見えなくなってしまっていた。
 きっと……『彼』はこの雪が溶けたとき、この世界からいなくなる……
 僕は窓から見える、しんしんと降る雪を眺めた。その中で、真っ赤な風車が回っている。きっと、僕がいなくなっても風車は回りつづける……
 その景色を堪能すると、僕は再びゆっくりと目を閉じた。そして、もう開けることはないだろうと思った。
 カラカラカラ……
 風車が回る。
 今日も雪が降る。



 




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