| 暗黒の章 第31章 水の少女 |
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彼女は雨の日に現れた。 見えたようで、見間違いのようで・・・ どしゃ降りの雨の中、彼女の姿は妙に曖昧で、雨の中に溶け込んでいるようだった。 「こんな雨の中、傘もささずにいたんじゃ、その内溶けて水になっちゃいますよ」 そう笑顔で冗談を言いながら、俺はおぼろげな彼女に自分の傘をすっと差し出した。 彼女は僕を見て、水の滴る頬を少し上げて微笑む。 白いワンピースは水を吸って、彼女の体にピタリと張り付き、体の線を浮き上がらせた。 地面に当たった雨粒は彼女の周りだけ美しくはね上がり、小さくなった無数の水滴が彼女の白い足の間を縫うように飛ぶ。 彼女はふいに両手を少し上げて、雨の降り注ぐ天を見上げた。 「良いの。こうしていると気持ちがいいの」 彼女の声は小川のせせらぎの様でもあり、だがその中には滝のような興奮があった。 俺は急に気分が軽くなって、自分の傘を放り投げた。 雨粒が全身を叩く、その心地よい衝撃が俺を包む。 「ね?」 彼女が笑い、俺も笑った。 その日、俺の最悪だった気分は一気に洗い流された。 俺を振った女のことも、受験に落ちた悲しさも、俺を馬鹿にした友人への怒りも、雨粒が打ち砕いて、俺の体から流しさってしまった。 「839番・・・839番・・・」 目の前の掲示板に張り出された合格者発表の紙の上を、俺はせわしなく滑らせた。隣の男がぶつかってきてもお構いなしだ。前の女の頭を避けるようにして、俺は自分の受験番号を探した。 「839番・・・」 俺はようやく800番台の番号を見つけると、上から順に見ていった。 「811・・・824・・・835・・・8・・・56・・・」 835番と856番の間には、俺の目が急に狂ったのではない限り、他の番号は挟まっていなかった。 俺二、三回そのことを確認すると、ようやく現実を受け止めた。急激な疲労と、止めどない虚しさが俺を包む。 がっくりと肩を落として人ごみの中から出てくる俺を見て、待っていた女、俺の恋人が同じようにうなだれた。 「なかったの・・・?」 さも残念そうな声でそう女が聞いた。俺はそれに一回だけ頷いて応える。 それとほぼ同時に、嬉しそうな声が後ろから響いてきた。 「あった!おい!あったぞ!受かった!」 友人が後ろから俺に掴みかかってきた。 「死ぬ気で勉強した甲斐があったってもんだよな!」 友人はそう言ってからようやく、自分と俺たちの温度差に気付いて声のトーンを落とす。 「あ・・・そうか・・・悪い・・・」 俺はそれに答えずに、ただ黙って地面を見つめていた。すると、友人が俺の肩に手を置いてきた。 「まあ・・・ほら、そう落ち込むなよ。来年があるじゃないか。な?また頑張れば良いんだ」 俺は自分の頭に血が急上昇していくのを感じた。思わず振り向いて友人に掴み掛かる。 「来年があるだと?お前は受かったからそう言えるんだ!俺はこれでもう二浪が決定だ!一人だけ受かったからって、去年の悔しさをもう忘れやがって!また頑張れだって?俺は今年十分にがんばった!お前が受かって、なんで俺が落ちるんだ!お前も落ちればよかったんだ!」 俺はそう言ってしまってから、はっと口を閉じた。逆上して、言うべきじゃないことを言ってしまった。 急に場の空気は冷えて、沈黙が三人を包んだ。だが、しばらくして、友人が呟くように吐き捨てた。 「何だよ・・・実力じゃねえか。卑屈になりやがって」 俺の理性は再び吹き飛んだ。友人に掴み掛かる。 「何だと!もう一回言ってみろ!」 「お前の頭じゃこの大学は無理だって言ったんだよ!来年はもっと簡単なところを受けるんだな!」 そう言うと、友人は俺の手を振り払い、迷惑そうな顔で乱れた服を整えながら続けた。 「自分が落ちたからって、受かった友達におめでとうも言わずに、それどころか落ちればよかった?情けないにもほどがある」 そう言い捨てると、友人はその場を立ち去ろうとして背中を向けた。俺は逆上して拳を握り締め、離れていく友人の背中に殴りかかろうとした。だが、その体を恋人が押さえる。 「もう止めなよ!」 止めておけば良いのに、俺は怒りに任せて恋人にも突っかかった。 「何だよ!お前もあいつと同じ意見か!俺なんかじゃ受かりっこないって思ってるのか!」 そう叫ぶと、俺は力任せに恋人の手を振り払った。衝撃で彼女は後ろに尻餅をついた。 恋人は顔をしかめて立ち上がると。俺を睨み付けた。 「怒って恋人に暴力振るうなんて最低。もう別れましょう。二浪の彼氏なんてみっともないし、私、将来性のない男には魅力を感じないの」 そう言うと、恋人は服についた汚れを払い、俺を置いて帰ってしまった。俺はただ呆然とその背中に視線を送ることしかできなかった。 残された俺を待っていたのは、この騒動を見ていた人たちからの冷ややかな視線と、嘲笑だった。 いてもたってもいられず、俺はその場を逃げ出した。 ひたすら走り、電車の中では可能な限り身を縮め、ようやく一人暮らしをしている家の最寄駅に着いた頃には、外はどしゃ降りの雨だった。 「なんだよ・・・この上今度は雨かよ・・・」 俺はもうすっかり気力がなくなり、誰にともなくそう呟いた。この場で泣き出したい気分だった。 運よく折りたたみの傘を持っていたため、俺はそれを広げてとぼとぼと歩き始める。 家の近くまで来ると、駅の近くでは前や後ろを歩いていた人影もなくなり、俺は一人で雨の中を歩いていた。 ふと、道の脇に視線を送ったとき、降りしきる雨が一瞬、人の形を造ったような気がした。錯覚かと思い、俺はそちらに目を凝らした。 雨に紛れるように、彼女がそこに立っていた。 僕は、ふと現実を忘れる。 「はい」 そう言って、彼女は俺にガラスのコップを差し出した。 俺は不思議に思いながら、何の柄も入っていない透明のコップを受け取る。 コップの中には、並々と注がれた透き通った水。 彼女の方を見ると、彼女は手を自分の顔の前まで持ち上げた。 俺もそれを真似て、コップを持った手を自分の目線まで持ち上げた。 「見える?私が」 透き通った水を通して、彼女の姿がゆらゆらと向こう側に見える。 まるで、水と一体化した彼女がコップの中にいるように・・・ 形を留めない彼女は、どうやら微笑んだようだった。 「水はね、世界を柔らかくするの。硬いクッキーが、水分を吸ってふやけるみたいに」 そう言われて、俺は改めてコップの中を覗き込む。 透き通った水を通して見る世界は、ゆらゆら揺れて、確かに柔らかそうだった。 ふと、水の中で揺れていた彼女が、まるで水の中に溶けてしまったように消えていった。 そう思った途端、彼女の手が俺の手からコップを取り返していた。 彼女はその中の水を、半分ほど飲んだ。 「そして、水は渇きを癒してくれる」 そう言うと、彼女はコップの中に指を二本入れて、水にそっと触れた。 水に触れたその部分から、彼女がコップに溶け出していってしまう気がした。 シャワーが降り注ぐ。 いつかの雨のように。 水滴が体を打ちつけ、流れ落ちる。 違いは、今は温かい。 温かい水は、心地よい温度で俺の体に絡みつき、包み込んだ。 白い手が後ろから伸びてきて、俺の肩の辺りから腹の辺りまでを一直線に撫でた。 振り返ると、彼女の笑顔がそこにあった。 長い黒髪から水が滴り落ち、白い肌の上をその水滴が伝っていく。 滑らかな山肌を流れる川のように。 「水はね、潤いを与えてくれるの」 そう言うと、彼女は両手の中に水を溜める。 薄い水のベールを纏った彼女の体は、眩しく輝いているように見えた。 彼女は両手の水をゆっくりと俺の体にかけ、そのまま俺の胸に顔をうずめた。 その体を抱き締めると、心地よい触感を全身に感じた。 彼女は、そのまま俺の体の中にしみ込んでいってしまいそうだった。 水の中を潜って進む。 底の色が反射した、真っ青な水の中。 俺の体が水と同化したように感じる。 ふと、目の前に彼女が現れた。 黒い髪が水の中でふわふわと揺れて、彼女は水に抱かれているように漂っている。 彼女が気付き、二人の目が水の中で合わさった。 水を通して、俺は彼女と繋がっているのを感じた。 水面に顔を出すと、彼女はゆっくり微笑んで水面を撫でるように手を泳がせた。 「水はね、調和を生むの。お砂糖が水の中で溶けてしまうように」 そう言うと、彼女は人気の少ないプールの中に、再びその身をゆっくりと沈めた。 俺もそれを追うようにして、水の中に潜る。 すると、それを待っていたように、水の中で彼女が手を伸ばした。 俺はその手を掴み、水と溶け合って彼女と混ざるような感覚に包まれた。 だが、突然、辺りが暗くなった。 青く、明るかった水の中は、暗く、冷たくなり、俺は恐怖に飲み込まれた。 そして、混じり合っていたはずの彼女の手が、再び隔絶されたような感覚になる。 俺は慌てて再び彼女の手を掴もうと手を伸ばした。 だが、彼女はゆっくりと沈んでいき、俺はその手が彼女の手を掴むことはなかった。 寂しげな表情で沈んでいく彼女に向かって、俺は必死で手を伸ばす。 ふと、暗い水の中に呑まれて見えなくなる瞬間、彼女が微かに微笑んだように見えた。 俺はもう一度引きちぎれるほど手を伸ばし、彼女の名を叫んだ。 はっと気が付くと、俺はどしゃ降りの雨に打たれていた。 訳も分からず辺りを見回すと、そこが彼女と出会った場所であることに気付く。 そして、雨の中に、まるで雨に溶け込んだような、妙に曖昧な人影を見た。 見えているようで、見間違いのようで・・・ そして、俺が近付こうとした途端、その姿は突然弱々しく地に崩れた。 俺は慌てて駆け寄ると、彼女を自分の腕の中に抱き起こした。 しかし、その体はまるで形を留めているのが精一杯という風に、存在感がない。 俺は感覚で理解した。 彼女がこのまま遠くに行ってしまうということを。 俺は彼女に取りすがって泣いた。 何度も、何度も、行かないでくれ、と繰り返した。 ふと、彼女が俺を見つめながら微笑み、弱々しく唇を動かした。 「私は・・・あなたを潤すことが・・・できたかな・・・」 彼女がそう言った瞬間、どしゃ降りの雨がふいに止んだ。 それと同時に、彼女は水になった。 俺の腕の中で、透き通った水に。 そして、その水が、俺の体の中に染み込んでいった・・・ 薄っすらと目を開けると、白い天井が見えた。どうやらベッドに寝ているようだが、この天井は家のものではない。 俺は状況が把握できず、とにかく起き上がろうと思った。しかし、手足が痺れて上手く起き上がることができない。もがくようにして何とか上半身を起こし、ベッドに座るような格好にまではなることができた。 辺りを見回すと、ここが病院の一室であることが分かった。だが、自分が何故病院で寝ているのか、それだけは思い出せない。 俺が事態を把握できないでいると、ドアが開いて看護師が入ってきた。 「あら、気が付いたんですね。良かった。あなた何日も眠っていたから」 何日も?一体何があったというのか。 「俺は、どうしたんですか?」 そう言ってから、俺は久しぶりに言葉を発した気がした。どうやら、何日も眠っていたというのは本当らしい。看護師は同情するように眉をしかめた。 「覚えてないんですか?」 俺はそれに首を振って答えた。すると、看護師が事情を説明してくれた。 「あなたは夜中に事故で車ごと海に落ちたんです。それを見ていた人がいて、通報が早かったから何とか助かったんですけど、呼吸が停止していた時間が長かったから、脳に若干の障害が残ってしまったんです。手足が思うように動かせないでしょう?」 なるほど、手足が痺れるのはそのせいだったのか・・・ 俺はその時、はっと気が付いて、慌てて看護師に聞いた。 「彼女は?」 俺の質問に、看護師は申し訳なさそうに下を向いてしまった。 「彼女は・・・目撃者の方が話していたことなので、はっきりとは分かりませんが、車が落ちてすぐに脱出できたらしくて、水面に顔を出したそうなんですが、その後また水の中に潜って、それから上がってこなかったそうです・・・」 もう一度潜った?どうしてそんなことを・・・ 「多分、運転席に取り残されたあなたを助けたんだと思いますよ」 俺はそう言われて、はっと看護師の顔を見た。 そうか・・・彼女は・・・俺を助けて・・・ 「これからリハビリが始まりますから、頑張ってくださいね?あ、お腹空いてますか?私、何か食事を持ってきますね。 そう言うと、看護師は部屋を出て行った。 つまり、俺はずっと彼女の夢を見ていたわけか・・・。彼女の夢は、何故か水に関わる場面ばかりだった・・・ そう考えて、俺はふと疑問に思った。 今までの彼女の姿を夢で見ていたなら・・・最後のあれは・・・?いや、あれは本当にただの夢なのかも知れないな・・・ そう結論したとき、俺はベッドサイドの小さなテーブルに、澄んだ水が入ったガラスのコップが置いてあることに気が付いた。 その水の向こう側に、笑顔の彼女が見えたような気がした・・・ |