暗黒の章 第29章 対話師

 CASE 1 傲慢な男


 それは奇妙な男だった。
 黒いカンフー着に、黒いジーンズ。黒いベルトに黒い靴。そして黒い髪。見るからに怪しい。なによりも不気味なのは、光を失ったような灰色の右目だ。
 落ち着いた態度ではあるが、その風貌には似合わず性格は気さくで、軽いノリで話し掛けてくる。
 そして奇妙なのは、見知らぬこの男が、なぜか俺のことを知っていることだ。さながら中国のアクション映画の悪役のような見た目にも関わらず、妙に渋みのある、しかし親しみやすいその声で話し掛けられて、俺は思わず対応してしまった。
「え、今、なんて?」
「いえ、ですから、今日は会社に行っても、絶対に企画を提出してはいけませんよ」
 毎日通勤に使う駅。通勤の時間帯なので、いつものようにかなり多くの客が電車を待っている。
 そんな中、この見ず知らずの男が、なぜ突然そんなことを言ってくるのか。俺は甚だ頭が混乱して、対応に困った。
 第一、どうやって俺が広告会社に勤めていることが分かったのか。そして、今日まさに、出来上がった企画を提出しようとしていたことを知っているのか。
「あの・・・どちら様で?どこかでお会いしたことが・・・?」
「いえいえ、初対面ですよ。ですが、警告はしておこうと思いまして。あなたは今日、その企画を出すべきではない」
「なんで企画のことを知ってるんです?あなたは何者だ?」
 男は薄らと笑みを浮かべてそれに答えた。
「私の名は『不幸な偶然』。『対話師』というしがない職業をやってます」
 ・・・?なんだって?頭がおかしいのか?対話師?そんな職業あるのか?どんなことするんだ?
 俺ははっと思い至った。
「分かった!あんたあれだろ?新手の占い師かなんかだろ?悪いけど、俺そういうの信じないんだ」
 俺がそう言うと、男は頭を掻いた。
「いや、そういうのとは違うんですがね・・・。とにかく、企画を出しちゃ駄目ですよ?」
 男がそう言ったとき、電車がホームに滑り込んできた。
 俺は視線を電車の方に向けて、ドアが開くのまでその様子を眺める。
 ドアが開くと、俺は男の方を向き直った。
「じゃあ、俺はこの電車なんで、しつ・・・あれ?」
そこには、男の姿はもうなかった。ホームの左右を見ても見当たらない。俺は不思議に思ったが、特に気にも止めずに電車に乗り込んだ。
 企画を提出するな?・・・馬鹿馬鹿しい。今回のは自信作なんだ。出さない道理がない。
 所詮は見知らぬ他人に言われたことだと、俺は大して気にも止めなかった。そして、会社に着く頃にはもう今朝のことは忘れていた。

 俺の名前は柴田弘二(しばたこうじ)。大手広告代理店『デンフォー』に勤めている。入社3年目にして企画部のエースなんて呼ばれてるほどの、自分で言うのもなんだが、やり手だ。
 今回の化粧品の企画も、ヒット間違いなしの相当な自信作だ。部長の感激する顔が目に浮かぶ。
 俺を慕ってくる後輩たちも、もう俺の部下みたいなもんだ。俺は出社すると、その後輩たちが集まっているのを見つけた。その一人の武部の頭に手を置いく。
「武部〜。髪が伸びてきたなぁ。ん?我が社は黒髪短髪が規則だぞ?」
 後輩たちが俺を見て急に焦ったように立ち上がった。
「し、柴田さん!おはようございます!髪、明日切ってきます!」
 武部がごまかすように大きな声で言った。
「ま、それなら良いけどな。そうだ!お前ら、俺の今回の企画、勉強のために見とくか?お前らじゃ到底考え付かない出来だぞ?」
「あ、いえ・・・結構で・・・いや、また後で見せていただきます!」
 後輩たちがそろって首を振ったので、俺は少しむっとした。
「ふん。俺の企画は勉強にならないってのか」
 後輩たちは慌てて手を左右に振った。
「い、いえ、そんな!そういうわけでは・・・」
「ふん。まあ良い。部長はどこだ?」
「あ、さっきお客さんが来たみたいです」
 そう言われて辺りを見回すと、部屋の一角に設けてある来客用のソファーに部長と客の姿見えた。
 あれはライバル店の部長さんじゃないか・・・。なんの用かな?まあ、あっちの部長さんとこっちの部長は知り合いらしくて、たまに来てるから珍しくはないが。
 俺は後輩たちのところから離れた。その俺の背中を、後輩たちの冷たい視線が突き刺していたことに、俺はこの時はまだ気付かなかった。
 とりあえず、話が終わるまで待とうと思い、俺は一先ず自分のデスクに向かう。しかし、その姿を見つけて、部長が俺に声をかけてきた。
「柴田くん!ちょっとこっちに来てくれるか!」
 その表情が少し強ばっているのが気になるが、俺はともかく部長のところに向かった。
「柴田くん。例の企画、出来上がってるか?」
 俺はその言葉に自信満々に頷いた。
「はい。もちろんですよ。今回も自信作ですから、見て驚かないでくださいね、部長」
「そうか。では、見せてくれないか?」
 そう言われて、俺はたじろいだ。他社の人間がいるところで、企画の原案を見せろと言うのか?
「え、今、ここでですか?」
「そうだ」
 俺はちらっと客の顔を覗き見た。探るような鋭い目線が俺を見つめている。
「部長・・・ですが・・・」
「良いから見せたまえ!」
 突然、部長が厳しい口調で言い放った。
 なにか変だ・・・いつもと違う。予定と違っている。
 俺は不振に思いつつも、部長の命令なので仕方なく企画の書類を手渡した。二人の部長がその紙に視線を落とす。俺は当然、二人から感嘆の声が漏れるものとばかり思っていたので、胸を張ってそれを待っていた。
 しかし、予想に反して、二人はみるみる険しい顔になっていく。俺はこの異様な空気に戸惑った。
「まさか・・・こんなことになるとは・・・」
 うちの部長が消え入るような声でそう呟く。
「揺るぎないですな。まったく同じ企画です」
 相手の部長が険しい表情でそう言った。
 俺は段々これがただ事ではないのが分かってきた。二人が何を言っているのかはまだ分からないが、とにかくやばそうだ。
「ぶ、部長・・・なんのことですか?同じ、というのは、一体・・・」
 それに答えたのは相手の部長だった。突然立ち上がると、俺に指を突き付け、怒声を上げる。
「いつまでそうやって白を切るつもりだ!貴様のこの企画!うちから盗んだのだろう!」
 金属バットで殴られたような衝撃に、俺は思わずよろめいた。
 今のは聞き間違いか?いや、頼むからそうであってくれ・・・!盗作だって・・・?そんな馬鹿な話があるか!
「お宅の管理責任でもありますな。どう責任を取るおつもりですか?」
 相手の部長の言葉に、うちの部長が深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。こちらで詳しく調査をした上で、必ず納得いただける形で結果をご報告しますので・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください、部長!私は・・・」
「君は黙ってなさい!」
 部長が鋭く俺を睨んだ。
 頭がグラグラして、まるで足元の床が突然崩れ去ったようだった。突然の事態に、俺はかつてないほどのパニックに陥った。
「まあ、顔馴染みのよしみで今日のところはそれで引き下がりましょう。しかし、必ず我々が納得できる処置をお願いします」
 そういうと、相手の部長は憮然とした足取りで出ていった。
 その背中に向かって深々と頭を下げていた部長に、俺は泣き付いた。
「部長!信じてください!私は盗んでなんていません!」
 部長は頭を上げると、感情を抑えた声でゆっくりと言った。
「それは私が判断することではない。君には会社から調査が入るだろう」
 これまで積み上げてきたものが、派手な音を立てて崩れていく気がした。俺は半泣きの状態でさらに部長にすがりついた。
「部長・・・そんなはずはありません・・・これはただの偶然なんです」
 俺は自分の言葉にはっとした。今朝の出来事が記憶から呼び起こされる。
 あの男、確か『不幸な偶然』とか名乗った。このことだとしたら何故、どうやって知ったんだ?
「本来ならば即刻クビという処分になっていたところなのだが、君のこれまでの実績を考慮して、調査をしてみることにしたのだ。君には後日、査問委員からの調査が入ることになるだろう。そこでもし、本当に盗作だということになれば、残念だが私にももうどうすることもできない」
 部長の言葉が頭の中で渦を巻いた。混乱しているせいか、理解するのに妙に時間がかかる。
 そうだ。調査だ。ちゃんと調査が入るなら、俺の無実が証明されるじゃないか。
 俺は少し落ち着きを取り戻すと、おぼつかない足取りで部屋を出て、ノロノロとトイレに向かった。頭の中では相変わらず様々なものがグルグルと回っている。
 トイレに入ると、俺は鏡の前に立ちセンサー式の蛇口に手をかざして水を貯め、思い切り顔にかぶった。
 これまで順調だった俺の人生が、こんなくだらない偶然で壊れるはずがない!そんなことあってはならない!
 もう一度顔に水を浴びせる。しかし、その後上着のポケットにハンカチが入っていないことに気付き、忘れてきたことを思い出した。
「はい。よければ、どうぞ」
 顔がビショ濡れのままオタオタしていた俺の眼前に、黒地のハンカチが差し出された。
 それを差し出した人物を見て、俺はのけぞるほど驚いた。今朝駅にいた、あの男だ。
「あ、あんた・・・なんでここに?いや、それより、どうやって入った!?」
「どうって・・・そんな、下水通って便器から出てくるわけないじゃないですか。普通に正面から入りましたよ!」
 男は当たり前のようにそう答えた。
「そんなことは分かってる!そうじゃなくて!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!入り口に受け付けと警備員がいただろ?」
 俺の言葉に、男はにっこりと笑った。
「ああ、あの人たちなら、少し話したらすぐに入れてくれましたよ」
 話した?おいおい。警備員の意味ないな・・・。いや、待てよ・・・。
「話したって、もしかしてあんた詐欺師か何かか?」
 俺がそう言うと、男はさぞ心外そうに眉をしかめた。
「失礼ですねぇ。私がそんないかがわしい人間に見えますか?」
 俺はそう言われて、男の頭の天辺から、足の先までを見直した。全身黒に、カンフー着・・・。
「あ〜・・・見えますね・・・。ですけど、そんなに怪しい者じゃないですよ」
 俺が言うまでもなく、男は自分から認めると、慌てて否定した。どうやら、怪しい格好だという自覚はあるらしい。
「いや、そんなことはどうでも良い!それよりあんた!何で企画のことを知っていた!どうして、こうなることが分かった!」
 男は急に悲しげな表情になった。
「やはり、提出してしまったんですね・・・。ですが、これは本来あなた自身が招いた事態です。元々避けては通れぬ試練だと受け取ってください」
「俺が招いた・・・?俺は・・・盗んでなんていないぞ!」
「それは分かっています。しかし、そういう意味ではありません」
「どういうことだ?・・・あんた、一体何なんだ?」
「私の名前は『暗い陰謀』。あなたと『対話』をするためにここに来ました」
 その言葉に、俺は首を傾げた。
「対話だと?それより、名前が変わったな。陰謀だって?どういう意味だ?」
「もはやこれは偶然ではありません。そして残念ですが、調査が入れば必ずあなたが盗んだという証拠が出てきますよ?」
「そんな馬鹿な!盗んでもいないのに、証拠が出るわけがないだろ!教えてくれ!一体何がどうなってるんだ?何故こんなことになった・・・」
「何故・・・ですって?」
 男は急に真面目な顔になると、俺に指を突き付けた。
「答えは全て、あなた自身の中にあります!私の役割は、対話することによって、あなたの中からその答えを引き出すことです」
 俺は頭を抱えた。
「俺の中にあるったって・・・全く心当たりがないぞ・・・。陰謀?誰かが俺をはめようとしてるってことか?」
「良く考えてください。心当たりは必ずあるはずです。人が成功する時には、その軌跡に『残りカス』が出るものです。あなたが、今の成功を収める為にないがしろにしてきたもの。切り捨ててきたもの。気にも止めなかったもの。もしくは壊したもの。攻撃したもの。振り返ってみてください」
 いきなりそんなことを言われても・・・。切り捨てたものだって?そんなものはいくらでもある。遊び歩く時間だって、友人だって、ときには恋人だって切り捨ててきた。
「必ずあるはずです。今回のことに繋がる何かが。そして、忘れないで下さい。あなたは一人じゃない。私がここにいるということは、あなたには最低でも一人、味方がいると言うことです。私に、あなたとの『対話』を依頼した人物が」
・・・ん?今、なんて言った?依頼と、そう言ったのか?
「どういうことだ?あんた、誰かの依頼でここにき・・・」
 突然、トイレのドアが開く音がして、俺はとっさに振り返った。2人組の社員が、なにやら話をしながら中に入ってくる。
 まずい。こいつは部外者だ。ここにいることがばれたら問題になるぞ・・・
「おい、あんた、すぐにここを出・・・」
 俺がそう言いながら振り向いた時、そこには既に男の姿はなかった。今朝と同じように、忽然と姿を消したのだ。これでは、あいつが現実なのか、俺の幻覚なのか、それすら怪しくなってくる。
 とにかく、俺はトイレから出ると、自分のデスクに向かった。
 俺が気にも止めなかったもの?壊したもの?なにがある・・・?それが一体、今回のこととどう繋がるって言うんだ?
 俺は頭の中を巡る様々な思考を収集する術もなく、倒れるように椅子に腰掛けた。そのまま、なにもせずに机の上を凝視する。
 周りから様々な音が俺の耳に滑り込んでくる。コピー機の音。電話の音。誰かの話し声。キーボードを叩く音。嘲笑するような笑い声。
 ・・・え?なんだって?嘲笑・・・?
 その嘲笑するような笑い声だけは、何か俺に向けられているように感じた。俺は反射的に、笑い声が聞こえた方を見た。
 視線の先には、なにやら一人のデスクの周りに集まった後輩たちがいた。そして、俺がそちらを見ると同時に、何人から慌てて目を逸らしたように見えた。
 切り捨ててきたもの・・・?壊してきたもの・・・?後輩との信頼関係・・・?
「まさか・・・あいつら・・・」
 そして、後輩たちが集まっているのは、武部のデスクだ。あいつだけ、殊更に俺の方を見ないようにしているようだ。
 そうだ!そういえば、あの企画の元になったアイデアを俺に提案したのは武部だ!
 俺はそのアイデアを元に、今の時代にあった装飾を施して、あの企画を作り上げたのだ。
 武部だと?まさか・・・武部が!
「あの野郎・・・」
 俺は頭に血が上って、思わず立ち上がった。
 しかし、後輩たちの方に向かおうと足を踏み出す瞬間、俺ははっと落ち着きを取り戻した。
 いや・・・ダメだ!今あいつらに突っかかったところで、証拠はない。周りからは、感情的になって罪を押し付けようと足掻いているようにしか見えないだろう・・・
 俺は怒りを押し殺して、再び座ったが、内心はらわたが煮えたぎっていた。
「くそっ!俺が・・・この順調な成功への道が・・・あんな連中のせいで・・・!ちくしょう!どうすれば・・・!」
 俺がデスクに突っ伏して、頭を抱えたままブツブツと言っていると、突然後ろから肩に手をかけられた。はっと振り返ると、そこには部長の姿があった。
「柴田君。今日はもう帰りなさい。ここにいても仕事にならないだろう。今日は家でゆっくりと気分を落ち着かせると良い」
 部長・・・?まさか、あいつに『依頼』をしたっていうのは部長か?
 一瞬そうも考えたが、さっき俺の企画を見たときの部長の反応は、とてもそうなることを知っていたようには見えなかった。それに、部下を気遣うような言葉ではあるが、その目の奥には疑心と失望の色が見て取れた。
 じゃあ・・・一体誰が俺の味方だって言うんだ!そんなやつ、本当にいるのか?
「はい・・・すみません」
 俺は部長にそう言うと、鞄を手にして席を立った。
 周りの視線が、半ばこっそりと、半ば堂々と俺の方に向けられた。その全てに軽蔑と悪意があるように感じられて、俺はいてもたってもいられなくなり、逃げるように会社を後にした。
 会社を出るとき、警備員の視線までもが俺を蔑んでいるように感じる。それどころか、関係ないはずの外を歩く人々までが、俺に対して敵意を向けているような気がしてくる。
 俺はその視線から隠れるように、身を縮めて早足に歩き出した。
 会社から少し離れると、下を向いて歩いていた俺の視界に、黒い靴が飛び込んできた。俺は立ち止まって視線を上げる。
「その様を見てください。あなたは今、とてもちっぽけで、脆くて、怯えている。それは本来のあなたとは逆のあなただ。ですが、紛れもなくそれもあなただ」
 俺はそのカンフー着に掴みかかった。
「後輩だ!そうだろう!あいつらが俺をはめやがったんだ!ちくしょう・・・!俺は・・・俺はどうすれば良い?あんな連中のために・・・俺の人生が・・・」
 男は呆れたように溜息を吐いた。
「まだ分からないんですか?あなたは今、あんな連中、と言った。あなたがあの人たちの何を知っているんですか?」
「なんだと?俺があんな奴らの何を知ってなきゃいけないと言うんだ!」
「あなたが取るに足らないと思っていたあなたの後輩たちが、あなたには手出しできないと思っていた後輩たちが、今あなたをここまでボロボロにした。あなたにとって脅威となった。違いますか?」
 俺は反論できずに、ただ呆然と男を見つめた。
「今回のことは確かにあなたの後輩たちの陰謀です。ですが、この事態を招いたのはあの人たちですか?いいえ。違います。この事態は、彼らを人とすら見ずに切り捨ててきた、あなた自身が招いたんです」
「俺が・・・?全部俺が悪いと言うのか?」
 男は首を振った。
「いいえ。誰が悪いなどというつもりはありません。ですが、いずれにせよ、あなたはこの事態に決着をつけなければならない」
 男から発せられる言葉が、縄のようになって俺に絡まり、締め付けた。やがて、それは俺の精神に直接食い込み、すっぽりと中に入っていく。
「俺はどうなる?どうすれば良いんだ?」
 男が笑顔を見せた。
「調査によって証拠は出ます。あなたは罰せられるでしょう。ですが、クビにはなりません。あなたを見込んだ上司と、私の依頼人とがあなたを庇うからです。その後、どうするかはあなた次第です」
 俺はその言葉であることを思い出した。
「そうだ。あんたの依頼人ってのは誰なんだ?」
「それは秘密です。私は秘密厳守で依頼を受けるので。ですが、良いですか?味方を見誤らないようにしてください。しっかりと見れば、誰が味方かは見えてきますよ」
 考えてみても、今のところ思い当たる人物はいない。だが、俺はその言葉に頷いて返した。
「あんたは一体、なんなんだ?」
 俺は最後に、最も疑問だったことを聞いた。男はふっと笑みをこぼした。
「私の名前は月夜野光(つきよのひかり)。人の心の陰を『対話』によって照らし出す『対話師』です」
 月夜野と名乗ったその男は、手を俺の顔にかざすと、両目を閉じさせた。
「そして、忘れないで下さい。人間は、関係性の中でのみ人間であるのです。あなたはこれまで『人』を疎かにしてきた。その忘れ物を取り戻してください」
 その言葉が終わると、ふっと前から人の気配が消えた。俺はゆっくりと目を開ける。案の定、そこには月夜野の姿はもうない。
 しかし、月夜野が立っていた場所に、白い文字で『対話師』と書かれた黒い名刺が落ちていた。俺はそれを拾い上げると、真っ直ぐ前方を見据えて、再び歩き始めた。

 次の日、俺が出社すると、例の相手方の部長さんが既に来ていた。ウチの部長が、俺の姿を見付けて手招きした。
 俺は大きく息を吐き出すと、そこに向かった。
「調査の結果、君が盗作を仄めかす言葉を口にしていたという証言が複数名から得られた」
 ウチの部長が残念そうにそう切り出した。
 まあ、恐らく後輩たちが口裏を合わせたのだろう。別に驚くべきことではない。
「それに伴って、君の処分が決まった・・・」
 部長はそこで一回言葉を切った。俺は黙って続きを待つ。
「減法と、厳重注意だ」
 あまりにも意外な言葉に、俺は二人の部長の顔を見比べた。月夜野がクビにはならないと言っていたが、まさかその通りになるとは・・・。そればかりか、たったこの程度の処分で済むとは、思ってもみなかった。
「本来ならクビでも納得できないところだが、君のところの部長からどうしてもと頼まれてね。それに、わざわざ我が社に出向いて、君の弁護を延々とやっていた人間がいたもんでね、こっちも仕方なく折れたよ」
 相手方の部長が、少々呆れたような顔でそう言った。
 俺の弁護・・・?
 一瞬、月夜野が相手方の部長さんと『対話』でもしに行ったのかと思ったが、すぐにウチの部長の口から意外な人物の名前が飛び出した。
「武部君だよ。彼は君を尊敬しているからね」
 俺は再び意外な事実に直面して、言葉を失った。
 なんだって?武部が?・・・だが、あいつは後輩たちの中心になって俺を陥れたんじゃないのか?
 俺は頭の中が混乱したまま、二人の部長からしばし説教を受け、その後解放された。
 視線の端に、後輩たちの不服そうな顔が見えたような気がしたが、その中に武部はいないようだ。
 呆然と自分のデスクに戻ってきた俺を追うようにして、武部が横に立った。そして、すぐさま深々と頭を下げる。
「柴田先輩、すみません!俺・・・他の皆に強要されて・・・どうしても断る勇気がなくて・・・」
 俺はまだ事態を掴めぬまま、俺に言われた通りに短く切りそろえられた武部の頭を眺めた。
「俺・・・本当は先輩のこと尊敬してて、目標だったのに・・・だけど、やっぱり自分が間違ってたことに気付かせてくれた人がいて・・・。せめてもの償いにと思って、相手方の部長さんのところに行ってきたんですけど・・・そんなんじゃ自分の気が済まないから・・・」
 そう言うと、武部は頭を上げて、目を瞑った。
「先輩が気の済むまで殴ってください!」
「月夜野か?」
 歯を食いしばる武部を見て、俺は呟くように聞いた。
「はい?」
「間違ってた、って気付かせてくれた人、って言ったろ?月夜野って奴か?」
「あ、はい、そうです・・・先輩のところにも行ったんですよね・・・」
 俺は急に可笑しくなってきた。
「よ〜し・・・」
 俺はそう言って立ち上がると、思い切り拳を振り上げた。武部が慌てて再び目を瞑って歯を食いしばった。
 俺は拳を振り下ろすように見せかけて、武部をヘッドロックした。
「・・・へ?え?」
 戸惑ったような武部の声に、俺は思わず吹き出した。
「武部!今日の昼は俺のおごりだ!なんでも好きなもんを好きなだけ食わしてやるぞ!」
 その言葉に、見えないが武部も笑ったようだった。
「痛ててて・・・先輩、じゃあ、俺、寿司が良いです!」
 俺は空いている方の左手の拳を武部の頭にグリグリと押し付けた。
「馬鹿野郎!俺は減俸処分になったんだ!もっと安いもんにしろ!」
「ずるいっすよ先輩!なんでも好きなもんって言ってた・・・痛い痛い!ギブ、ギブ!」
 俺は今まで成功とか出世とかにこだわり過ぎていた自分が阿呆らしく思えてきた。
 ふと、ドアの方に月夜野の姿を見たような気がした。
 まあ・・・気のせいだろう。


 CASE 2 彷徨う少女


「私は誰?」
「あなたはあなたです」
「『あなた』って誰?」
「あなたの言うところの『私』です。『私』とは、あなたという人をあなた自身が定義付ける概念」
「私自身・・・?私はなんのために生きているの?」
「あなたはあなた自身のために生きているんです」
「なら、何をしようと私の勝手よ」
「いいえ。『あなた』は私が居るから『私』なのです。あなたに関係する全ての人が『あなた』という存在を支えています」
「嘘ね・・・。誰も私のことなんて気にしていない。お父さんも、お母さんも・・・。だから、私も他人なんて気にしない」
「嘘ではありませんよ。なら、私とあなたはどうやって区別されるんですか?別々の『私』と『あなた』がいるからこそ、今こうして対話ができるのです」
「良く分からない・・・」
「では、あなたはどうして『他人』に依存するような方法で日々を生きているんですか?」
「お金が必要だからよ。別に依存なんてしてないわ。ただ、手っ取り早いから利用しているだけ」
「それじゃあ、利用される人々がいなければ、あなたはどうするんですか?」
「・・・」
「あなたの『お客』もまた、『あなた』を規定しているんです」
「だからって・・・私が他人を気にする理由にはならないわ」
「いいえ。人間はお互いに依存し合って生きています。あなたも当然その中の一人。だから、他人があなたを気遣うように、あなたも他人を気遣わなければいけないんです」
「いい加減にして!」
 私はこれまで冷静に話していたが、私を子供扱いするようなこの男の言い方に我慢ならなくなって、喫茶店のテーブルを叩いた。
「誰も私のことなんて気遣ってない!ウチの親だって、私が何してようと無関心じゃない!」
 男は尚も冷静なので、私は自分だけが苛立っているという事実に更に苛立った。
「あなたのご両親に関しては分かりませんが、少なくとも私はあなたを心配していますよ」
 そう言ってにっこり笑う男に、私は一瞬言葉を失った。
「大体、あなた何者なの?お客かと思ってきてみれば、急にこんな説教を始めて!」
 そうだ。いつものようにネットの掲示板を見たお客かと思ったのに、いきなり「対話をしたい」とか言い始めて・・・。最初は親睦を深めて、その後ホテルにでも連れ込むのかと思ってた。
 私は佐野亜佐美(さのあさみ)。高校二年生。バイトするのも嫌だから、遊ぶお金のために援助交際をしている。
 大抵、いつもお客は臭いオヤジとか、デブとかネクラとかだから、珍しく親切な良い男が来たって喜んだのに(服装は変だけど)、素直に話に付き合ってたら、こんな説教になって・・・。一体なんのつもり?
「私の名前は『錆び付いた心』。対話師という職業をしています。これは説教ではなく『対話』ですよ」
「何を意味の分かんないこと言ってんの?バカじゃないの?お客さんじゃないならもう帰る!」
 私がそう言うと、男は静かに首を振った。
「いや、お客さんですよ。ただし、あなたが私の客という意味ですが・・・。それと、覚えて置いてください。私だけじゃない。あなたを心配している人は、少なくとも一人はいますよ。私は知っています」
 何が言いたいのかさっぱり分からない。私はその言葉を無視して、席を立った。
「あぁ、ここは私が払っておきますよ。それでは、また後日」
 誰があんたなんかと二度と会うもんですか!おごるのも当然よ!こんなところまで呼び出しておいて!
 私はまたまたそれを無視して、荒々しく店を出た。 なんだか無性に腹が立った。自分でもどうしてこんなにイライラするのか分からない。
 その日は真っすぐ家に帰り、自分の家に引きこもった。親は家にいない。共働きで、私が子供の頃から夜しか姿を見たことがない。
 その癖、帰ってくると待っていた一人娘を可愛がるどころか、勉強しろとか、好き嫌いするなとか、ああだこうだと説教ばかりする。
 学校の成績だっていつもトップクラスだったのに、誉めてもらったことなんて一度もない。そりゃあ、毎日誰もいない家で、勉強ぐらいしかすることがなかったから、できて当然なんだけど。
 中学生の時、急に嫌になって三日間家出をしたことがある。その時も、両親は帰ってきた私を心配したり、喜ぶより、ただ散々に私を叱った。私は少し期待して帰ってきたことを後悔した。
 そんな私が、高校に入って、クラスのちょっと不良っぽい子の誘いに乗って援助交際というやつを始めたのは、無理のないことだと私は思っている。「何でやっているのか」と聞かれたら答えられないけど・・・
 別にセックスが好きと言うわけじゃない。気持ち良いとも思わないし、むしろ変な男どもに体を触られるのは気色が悪いくらい。ただ、お金が稼げるのは大きい。親からのお小遣いじゃとても手に入らないような大金。
 おかげで、遊ぶお金には困らないし、ほとんど家に帰らなくても自分で生活できる。何日も帰らないと親は怒るけど、それも無視することに決めている。
 別に私自身が不良というわけでもないと思う。相変わらず成績は良いし、学校にも行ってるし、むしろ優等生だと言っても良いぐらいじゃないだろうか。
 じゃあ、何で?分からない・・・。でも、理由なんてどうでも良い。親への反発かもしれない。自傷行為かもしれない。別にどれでも良い気がする。
 私は、私の好きなようにしてるだけ。
 ・・・他人を気遣う・・・?バカみたい!何よ、あいつ!私が何しようと、誰にも関係ないじゃない!
 私は妙に苛立った気分を抑えるために、今日のところはお風呂に入って寝てしまうことに決めた。親とは顔を合わしたくないので、帰ってくる前に。
 ・・・だけど、その夜は、何か色々なことを考えてしまい、中々眠れなかった。
 ・・・私は・・・誰?

 次の日の朝、私は制服に着替えると、お母さんのいる居間に顔も出さずに家を出た。もうこの一週間、親とは口を聞いていない気がする。
 駅までの道を歩きながら、私は眠い目を擦った。結局、昨日はほとんど寝ていない。化粧をしても分かってしまうようなクマができている。私は憂鬱な気分で電車に乗り込む。
「おはようございます」
 一瞬、誰が誰に声をかけたのか分からず、私はその声に反応しなかった。しかし、見ると、目の前に中国っぽい模様が見えた。はっと視線を上げると、昨日の男が吊革に掴まって笑っている。
「あなた・・・昨日の・・・どうしてここにいるの?」
 どうして私がこの電車に乗ることが分かったのだろうか。偶然乗り合わせただけ・・・?いや、そんな偶然があるはずもないし、男の方は驚くどころか、私を待っていた風だ。
「どうしてって・・・そうですね・・・偶然乗り合わせました」
 男は白々しくそう言った。私は男の涼しい笑顔を睨み付けた。
「どうして私を付回すの?あなたストーカー?」
「や、やめてくださいよ、こんな大勢の前で、人聞きの悪いこと言うのは・・・ただでさえ怪しい格好なんですから」
 あ、自覚あったんだ、この人。・・・いや、そんなことはどうでも良い。一体何しに現れたのだろうか。
「あなた、何なの?何しに来たの?」
「私の名前は『頑なな抵抗』。どうですか?少しは、あなたが誰なのか見えてきましたか?」
 名前が変わってるし・・・。それより、まるで私が昨日、色々考えていて眠れなかったのを見透かしたような言い方。
「私が昨日言ったことなんて、あなたの話に合わせてあげただけじゃない。『私は誰か』なんて、そんなこと本気で考えてると思うの?」
 私の言葉に、男は例の私を子ども扱いするような笑みを浮かべた。
「ええ、思います。私があなたに、何か聞きたいことがないか尋ねた時にあなたはその質問をした。最初に出てきたその問いこそ、あなたが無意識に選び取った、あなたが凝縮されている意味のある問いです」
 また始まった・・・。ウチの親と同じで、よっぽどの説教好きみたいね・・・
「バカみたい!私、これから学校なんです。もう付きまとわないでいただけますか?」
 男は私の言葉を無視したように会話を続ける。
「ふむ・・・学校ですか。学校とは、あなたの問いの答えを探す良い場所ですね。少し、意識して探してみたらどうですか?」
 もう・・・なんなのよ、こいつ。いい加減にしてよね。そろそろ電車に同じ学年の子とかが乗ってくるのに・・・こんな奴といるとこ、見られたくないな・・・
 私がそう思ったとき、電車が停車し、ドアが開いた。
「あ、亜佐美。おはよ〜」
 その声に、私は首をすくめて振り返った。同じクラスの竹田友里(たけだゆり)だ。
 ほら・・・もう見つかっちゃったじゃない・・・。どうしよう、どうやって誤魔化そうかな・・・
 私は男に口裏を合わさせるため、男の方を振り返った。
「あれ・・・?」
 そこには、いつの間にかあの男の姿はない。見てない内に降りたのだろうか。
「亜佐美?」
 もう一度声をかけられて、私は慌てて笑顔を作った。
「お、おはよう、友里」
「どうかした?・・・あ、クマができてるよ?何かあったの?」
 やっぱり分かっちゃうか・・・。
「別に、ちょっと、昨日眠れなくて」
 友里は私と同じ中学で、別に合わせたわけではないが、同じ高校に通っている。真面目な優等生だが、別に特に仲が良いわけではない。内気な子で、中学の頃からたまに話したりするぐらいで、高校に入ってからもその関係は特に変わっていない。
 今日に限って話しかけてくるなんて、珍しい。いつもは同じ車両に乗っても、挨拶ぐらいしかしないのに・・・。まあ、私が他の友達と一緒にいることが多いせいもあるかな・・・
「そっか・・・何か・・・悩み事?」
「ううん、違うよ。ホントに、何でもないんだ。ほら、ちょっと、テレビ見てて・・・」
 なんで私はこんなに焦って誤魔化しているのだろうか。それにしても、この子がこんなに突っ込んで色々聞いてくるなんて、本当に珍しい。
 私が言い訳した時、目的の駅に着いて、私たちは揃って電車を降りた。
 さっきまでとは打って変わって、友里は駅を出るまで押し黙ったままだ。やっぱり、私の思い過ごしかな・・・・
「あの・・・亜佐美さ・・・」
 駅を少し離れて、人気が少なくなった頃、再び友里が口を開いた。
「うん、なに?」
「あのね・・・ちょっと変な噂、聞いちゃって・・・」
 私は一瞬ギクリとした。
「噂って・・・私の?」
 私がそう言うと、友里は小さく頷いた。
「へ、へぇ〜・・・どんな噂?」
 まさかとは思うけど・・・
「亜佐美が、援助交際してる、って・・・」
 やっぱり・・・。
 私は気分が重くなるのを感じた。一体、どこからそんな噂が?どれぐらい広まっているのだろう・・・
「・・・ゆ、友里は、信じてるの?その噂」
 私は何を言っているんだろう。笑い飛ばして否定すれば良かったのに・・・
「あ、ごめんね!違うの!そうじゃなくて・・・。ほら、亜佐美って、クラスのちょっと不良っぽい子たちと良く話してるから・・・もしかしたら、無理矢理やらされてるとか、ないかなって・・・」
「ふ〜ん・・・」
「ただの・・・噂だよね・・・?」
 どうしたの、私・・・。「バカみたい!そんなのただの噂よ!」って、笑い飛ばせば良いだけじゃない。簡単よ。「そんなことあるわけない」って、言えば・・・
「ううん・・・本当だよ・・・その噂」
 その言葉に、友里は呆然として立ち止まってしまった。
 何でこんなこと言ってるんだろう・・・私。でも、良く分からないけど、誰かに言ってしまいたかったのかもしれない・・・
「ど・・・どうして・・・?どうしてそんなことするの?」
「お金が欲しいからに決まってるじゃない。凄い稼げるんだよ?」
 本当に・・・?私、お金なんて必要だっけ?そんな理由・・・?
 友里は、また一瞬黙ってしまったが、少し震えた声で言う。
「もう止めなよ・・・そんなこと・・・絶対に良くないよ・・・」
「・・・どうして?」
「どうしてって・・・だって・・・危ないし・・・ご両親だって、心配するよ・・・それに、私だって・・・」
「友里には関係ないじゃない!」
 親が心配する、という言葉に、私は急に頭に血が上って、思わず友里の言葉を遮ってそう叫んでしまった。しかし、一度叫んでしまうと、後が止まらなくなる。
「なによ!友里までそんなこと!友里が私の何を知ってるのよ!そんな風に説教して、それで友達のつもり?冗談じゃない!あなたなんかと友達になったつもりはないわよ!」
 そこまで言って、私ははっと口をつぐんだ。何をこんなにムキになっているんだろう。
 見ると、いつの間には友里の目には涙が溢れていた。何か言おうと口を動かすが、声が出ないようだ。
 私はいてもたってもいられず、その場を走り去った。

 私は学校に着いても教室に行く気になれず、そのまま校舎の裏の人気のない場所まで走った。そのまま壁に手をついて、乱れた呼吸を整える。
「最低だ・・・私・・・」
 口からそんな言葉が漏れた。そのまま壁に背をつけて、ずるずると座り込む。
 最初から否定して、誤魔化してればこんなことにならなかったのに・・・。自分から話して、自分から怒って・・・友里にあんなこと言って・・・
 友里は・・・友里はただ・・・私のことを・・・
 自分はとんでもない大馬鹿者だと思い、急に涙が溢れてきた。
「せっかく学校に来たのに、わざわざ校内でサボりですか?」
 私は膝の上に埋めた顔を上げなかった。上げなくとも、誰かは分かっていた。
「なによ・・・。ホントにしつこいのね・・・」
 私は男になるべく見えないように、涙を拭いた。
「その様子だと、段々と分かってきたんじゃないですか?」
 私はようやく立ち上がって、その左右で色の違う瞳を睨んだ。
「また説教するつもりなら止めて!友里がどうしたって言うの?あんな子が私のこと心配してようが、関係ないじゃない!」
 私がそう言ったとき、男はこれまで絶えず浮かべていた笑みをふっと消した。そして、男の手のひらが、私の頬をしたたかに打ちつける。
 別に痛くはなかった。男が全然力を入れていないことは分かった。なのに、私はそうされたことに呆然として、言葉を失ってしまった。
「いい加減、意地を張るのは止めなさい。あなたはもう分かっているはずです。自分が間違っているということを。ただ反発して、見るべきものを見ていないだけだということを」
 そう言うと、男はまたふっと笑顔に戻り、私の頬に今度は優しく手をあてがった。
「叩いたりしてすみません。でも、こうやって叱られるということが、どういうことなのか、あなたはもう分かっているはずです。あなたは叱る人が、どういう人なのか」
 突然、自分でも制御できないまま、涙がこぼれた。だが、私の口は、それでも虚しく抵抗を続けようとする。
「なんで・・・あんたなんかにそんなことが分かるのよ・・・」
 その問いに、男は私の頬に当てていた手を離し、自分の黒い方の目を覆い隠した。
「それは、答えがあなた自身の中にあるからです。私はこの色を失った目で、それを見ることができます。そして、『対話』によってそれを引き出すのです」
 灰色の瞳が私を真っ直ぐ見つめた。
「・・・嘘っぽい・・・」
 私が呟くと、男は心外そうな顔をした。
「失礼ですねぇ・・・まあ、この目で見えるっていうのは嘘ですけど・・・」
「大体、あなた誰なの・・・?」
 男はにこりと笑いかけてきた。今始めて気づいた。この人の笑顔は、いつも優しい。
「私の名前は月夜野光。人の心の陰を『対話』によって照らし出す『対話師』です」
 私は一瞬唖然として、思わず聞き返した。
「月夜の光?」
「月夜野です!名字ですよ!文章みたいに読まないで下さい!」
 珍しくムキになってそう言う月夜野という男を見て、私は思わず笑ってしまった。月夜野さんも、それを見て笑顔になった。
「もう、大丈夫そうですね」
「うん・・・多分、分かったんだと思う。私を叱ってくれる人たちは、私を本気で心配してくれる人たちなんだよね?心配で、大切だから、怒ってくれるんだよね?」
 月夜野さんは、優しい笑顔のまま、私の頭に手を置く。その好意が、何故かどんな言葉よりも心から私を褒めてくれたように感じた。
「ごめん。私、行くね!謝らなきゃいけない友達がいるの」
「ええ、どうぞ。きっと、許してくれますよ」
 私はそれに頷くと、教室に向かって走った。まだ授業は始まる前だ。友里も、教室にいてくれると良いけど・・・
 そんなことを考えながら、校舎に入ったところで、中からやはり駆けてきた友里とばったり出くわした。
「あ、亜佐美!今、教室に行ったら亜佐美が居なかったから・・・」
「友里!ごめんね!さっきはあんなこと言って、ホントに・・・ごめんね・・・」
 私は友里の言葉を遮って、早口にそう言った。
「友里は、私のこと心配してくれただけなのに・・・私・・・それも分からなくて・・・」
 友里がそれを聞いて、微笑んだ。月夜野さんと同じ、優しい笑みだ。
「いいよ。気にしてないから」
 私はまた泣きそうになった。さっきから泣いてばかりだ・・・
「私もね、謝らなきゃいけないことがあるんだ」
 友里の意外な言葉に、私は涙を引っ込めて友里の顔を見た。
「亜佐美が援助交際してるって、噂で聞いたって言ったでしょ?あれね、嘘なの」
 嘘?じゃあ、どうして友里が・・・?
「ホントはね、亜佐美が町で男の人と会ってるの見ちゃったんだ。それも二回も」
「え・・・じゃあ・・・」
 友里は申し訳なさそうに下を向いた。
「うん。ホントはね、確認するまでもなく知ってたんだ・・・。最初見たときは信じられなかったけど、二回目でさすがに分かって・・・。だから、嘘ついてたの。ごめんね・・・」
「なんだ、そうだったんだ・・・。てっきり、そんな噂が広まっているのかと思って、心配していたの」
 私の言葉に、友里が慌てて首を振った。
「あ、もちろん私は誰にも言ってないよ?あ・・・それも嘘か・・・」
「え?誰かに話しちゃったの?」
 不安が戻ってきた。その時、呼鈴が鳴ったので、私たちは話を中断して、その日は真面目に授業を受けた。
 放課後、私は友里と一緒に学校を出た。気になっていた話の続きを促す。
「友里。その話しちゃった人って、誰なの?」
 私がそう聞くと、友里の方が首を傾げた。
「うん・・・えっと・・・なんて言ったら良いのかな・・・」
 頭を捻っている友里を不思議に思って見ていると、急に友里が何かに気付いて前方を凝視し始めた。私もその視線を追う。
「あ、月夜野さん・・・」
 二人の声が重なった。
「え?」
 私は思わず友里の方を見た。なんで、友里が知ってるんだろう・・・
「どうも、お二人ともお揃いで。仲直りできたようですね」
「はい。あの、どうもありがとうございました」
 二人のやり取りを聞いて、私は頭が混乱してきた。
「え?・・・え?ちょっと、月夜野さん。どういうこと?友里、どうして月夜野さんのことを・・・?」
 私が混乱して聞く様を、友里は申し訳なさそうに、月夜野さんは可笑しそうに眺めた。
「あのね・・・亜佐美。月夜野さんに、亜佐美と話してもらうように頼んだの、私なの・・・」
 私は目を丸くして友里を見る。
「じゃあ、話したっていう人も・・・?」
「はい。私に事情を説明してくれたんです。友達が危ないことをしている、と」
 友里に代わって、月夜野さんが説明した。私はその事実を聞いて、なんだか肩の力が抜けてしまった。
「なんだ・・・そうだったんだ・・・」
「ごめんね・・・勝手にこんなことして・・・」
 友里はまだ申し訳なさそうにしている。
「ううん。友里は私の心配してくれただけだもんね。それより・・・」
 私は、気になっていたことを質問するべく、視線を月夜野さんの方に移した。
「月夜野さんって、付き合ってる人いるの?」
 私の質問に、月夜野さんは一拍遅れて反応した。
「え?わ、私ですか?ど、どうしてですか?」
「月夜野さんの右目、どうして片方だけ灰色なの?」
 私はあえて月夜野さんの言葉を無視してそう言った。
「い、いえ・・・大した理由じゃないですよ。子供のころ交通事故で視力を失いまして・・・」
「月夜野さんって、かっこいいよね。その右目も、特に。ねえ、友里?」
 突然話かけられて、友里は焦ったように頷いた。
「もし彼女がいないんだったら・・・良かったら・・・」
「あ、あの、これ、はい、名刺です。じゃあ、私はこれで失礼しますね」
 月夜野さんは私に名刺を渡すと、そそくさとその場を立ち去ってしまった。
「あの・・・亜佐美・・・?」
 状況を掴み切れていない友里が、困惑したように話しかけてきた。
「ん?私に偉そうに説教したお返しよ。まあ、ホントにかっこいいとは思うけどね」
 そう言って笑うと、友里も一瞬目を丸くしたが、すぐに可笑しそうに笑った。
「ねえ、友里・・・」
「なに?」
「私は・・・誰?」
「え?」
「私は、佐野亜佐美。お父さんとお母さんの子供。友里の友達。だよね?」
「・・・うん。もちろん!友達だよ」
「友里・・・」
「ん?」
「ありがと・・・」


 CASE 3 失った男


 どうして・・・
 どうして・・・
 彼女が笑顔で言う。
「あなたなら大丈夫よ。ね?」
 何の話をしていたんだっけ・・・?思い出せない・・・
 だが、彼女の笑顔はいつものように僕を優しく照らす。
 あぁ・・・君はいつでも僕の光だ。
 なのに・・・どうして・・・
 どうして・・・あとほんの少しだけ・・・手を伸ばすことができなかったのだろう・・・
 僕の手は、由樹の手を掴むことはなかった。・・・そして、これからも永遠にない・・・

「ねぇ、お父さん・・・」
 娘の声が聞こえた気がした。
「私・・・学校でね・・・」
僕は読んでいた、いや、正確にはただ眺めていただけの新聞を下げた。
「ん?何か言ったか?」
 そう聞くと、由香は一瞬黙ってから首を振った。
「・・・ううん。なんでもない・・・行ってきます」
 制服姿の由香が台所を出ていく。その背中に声をかける。
「ああ、いってらっしゃい」
 僕は朝食を済ませると、食器を片付け、ネクタイを締めた。
「さあ、僕も行くか・・・」
 僕の名前は羽村浩司(はむらこうじ)。娘の由香(ゆか)と暮らしている。
 妻の由樹(ゆき)が交通事故で死んでから2年。最初は慣れなかった料理や家事も、今は結構できるようになった。
 由香と分担してやれば、仕事をしていながらでも、家を無事に保つことができる。由香ももう高校生なので、家のことに関しては僕より頼りになる。名前を一字取ったせいか、由香は最近若い頃の由樹に面影が似てきた。由香を見ていると、思い出してしまう・・・
 今だに過去の出来事を乗り越えられない自分には気が付いていた。しかし、どうしろと言うのだ。乗り越えろと言われてできるものならもうとっくにしている・・・
 それに、由樹の死は、僕に責任がある・・・
 僕は今日も重い体を引きずるように玄関に行き、緩慢な動作で靴を履くと外に出た。こんな天気の良い日は、妙に後ろめたくなってどこか影に隠れたくなる。
 僕は玄関のカギを閉め、出勤するべく振り向いた。
 そこには男が立っていた。カギを閉めるために後ろを向いた一瞬の内に現われたため、僕は驚いて体を硬直させた。
 僕が驚いた理由はそれだけじゃない。男は長袖の黒いカンフー着を着て、黒いズボンに黒い靴を履いている。一見すると中国マフィアかと見紛う。そして最後に顔を見て気付いたが、男は右目だけ灰色だ。何があったのか気になるが、今は関係ないから止めておこう。
「あなたの悲しみはお察しします。ですが・・・この家・・・すっかり悲しい場所になってしまっていますね・・・」
 突然の男の言葉に、僕はその意味を理解しかねた。
「はい?あの・・・どちら様で・・・」
 男は思い出したように頭を掻くと、手を差し出してきた。
「ああ、申し遅れました。私の名前は『消えない傷跡』。あなたとお話をするために来た、対話師です」
 僕はとりあえず条件反射で握手をしたものの、相変わらず男の言葉は理解不能だ。
「ええっと・・・何かご用ですか?」
「はい。ですから、あなたと対話をするために伺いました」
 男はニコニコと笑っている。真面目に言っているようだ。
「はぁ・・・何のお話でしょうか。心当たりはありませんが・・・」
 僕がそう言うと、何故か男も首を傾げた。
「さぁ・・・私にもそれは分かりません。内容よりも、対話自体が重要なので・・・」
・・・からかっているのだろうか。
「あの、用が無いんでしたら、私は仕事なので失礼させていただきますが?」
「あ、これは申し訳ない。お引き留めしてしまって・・・」
 妙な男だ・・・。まあ、大方何かのセールスとか、勧誘とかだろうから、振り切れて良かった。
「では、駅まで歩きながらでも良いですから、行きましょうか」
 男の言葉に僕は唖然とした。セールスがそこまでするだろうか。やはり、そういった類ではないのだろうか。
 男に促されるまま、僕はとにかく駅に向かって歩き始めた。男もそれについてくる。
「いやぁ、今日は良く晴れましたね。こんな日はこういう格好してると暑くてかないませんよ」
「・・・あの、それで、話というのは?」
 とりあえず服装に関して突っ込むのは止めておいて、僕はさっきから気になっていることを聞いた。
 男は急に笑顔を収めて、僕の方をじっと見つめた。
「顔色が優れませんね」
「え・・・?」
 突然何を・・・。確かに、このところ良いとは言えないが・・・
「もう、2年間もずっとそんな調子なんじゃないですか?」
 2年、という言葉に、僕はギクリとした。この男、まさか知っているわけではないだろうな。
「奥さんが亡くなったのは・・・あなたのせいじゃないんですよ?」
 僕は思わず足を止めて、男の顔を見た。知り合いかと思ったが、記憶違いじゃない限り間違いなく初対面だ。
「なんで・・・そんなことを知っているんです・・・?」
 唐突に、底の方に沈んでいた記憶を引っ張り上げられて、僕は思わず歯を食いしばった。肩に力が入り、ワナワナと振るえる。
「あれは事故だったんです。どうすることもできなかった、事故です。あなたが責任を背負い込むべきことじゃありませんよ」
 男にそう言われて、僕は男の襟首に掴みかかった。
「あんたに!・・・あんたに・・・何が分かる・・・。あの時・・・俺の手が届いていれば・・・」
 掴みかかったのは良いが、僕は急に気力が失せて、そのまま地面に膝を付いてしまった。
「あれは・・・僕のせいだ・・・」
 そう・・・あの日、僕は由樹と一緒に近くのスーパーに買い物に行った。休日の午後だった。
 由樹がシチューを作るんだと張り切っていて、その材料を買出しに向かったのだ。由香は家で留守番をしていたが、母さんの作るシチューが大好きだった由香は、夕食がシチューだと聞いて飛び跳ねて喜んでいた。
 由樹は付き合い始めた大学時代から料理が上手かった。その頃からシチューは得意料理で、「シチューはね、入ってる具材の旨みと栄養分が残さず凝縮されているのよ」と、自慢気に話していたっけ・・・
 その日も由樹は、今日はアスパラを入れてみるんだ、と嬉しそうにスーパーに向かっていた。
 道路沿いの歩道をのんびり歩きながら、二人で取り留めのないことを話して・・・。学生時代に戻ったようで、何だか楽しかった。
 何の話をしていたんだっけ・・・。多分、会話の中で僕が何か弱気なことを言ったんだろう。そんな僕を励ますように、由樹は真っ直ぐに僕の目を見ると、
「あなたなら大丈夫よ。ね?」
 そう言って優しく微笑んだ。
 その直後だった。由樹は何かにつまずいて、歩道の段差から足を踏み外した。僕は由樹の体が車道の方に傾いたのを見て、とっさに手を伸ばし、その手を掴もうと・・・
 決して交通量の多い道路ではなかったが、ちょうどその時、ミニバンがかなりスピードを出して迫って来ていた。運転していたのは友達を乗せた若い男。
 あの時・・・僕がもう少し手を伸ばして・・・もう少し早く反応して・・・由樹の手を掴めていたなら・・・
 血を流してぐったりと道路に横たわった愛する人の姿に、僕は取り乱して、何て声をかけたんだっただろうか・・・。車から降りてきた若者達は、動揺した表情で何と言ったんだったか・・・。僕はそれに対して何と言っただろうか・・・
 その後のことは、何も思い出せない。ただ、はっきり思い出せるのは、彼女の最後の言葉と、その笑顔・・・そして、僕が彼女の手を掴めなかったという事実だけだ・・・
 母親の死を知った由香は、しばらく一切口を利かず、時々思い出したように突然泣き出していた。その涙を見るたびに、僕は自責の念と悲しみに押し潰されそうになった。
 ふと、男が僕の肩に手を置いた。
「奥様が亡くなられた悲しみはお察しします。ですが、人は過去に縛られてばかりでは前に進むことができない。見るべきものも見ることが出来なくなってしまいます」
 僕は涙を拭って立ち上がると、再び歩き始めた。
「取り乱してしまって・・・申し訳ありません・・・ですが、そんなことは言われなくても分かってはいるつもりです・・・」
 男も、僕の一歩後ろをついて歩いてくる。
「分かっているだけ・・・ではないんですか・・・?」
 図星を突かれて、僕は一瞬言葉を失った。確かに、男の言う通り、分かっているだけで実際に乗り越えられていないことを自覚している。
「そうかもしれませんね・・・早く乗り越えなければいけないと、僕も思うんですが・・・」
 僕がそう言うと、男は少し歩を早めて、僕の横に並んだ。
「いえ、乗り越えるのではありませんよ。過去を忘れ去ってしまってはいけません。受け入れて、呑み込むんです」
 受け入れて・・・呑み込む・・・。そうか・・・無意識に過去を否定しようとしていた僕では、それはできないな・・・
 その時、駅が見えてきた。男は立ち止まると、軽くお辞儀をした。
「それでは、私はこれで失礼します」
 僕は駅の方を振り返った。駅までは、まだ少し距離がある。
「まだ良いじゃないですか。もう少し、話を・・・あれ?」
 そう言いながら彼に向き直った時には、すでに彼の姿はなかった。
 結局、本当に話をしただけで行ってしまった・・・。奇妙な男だ。彼は一体何者だったのだろうか。
 僕は男のことが気になりながらも、そのまま電車に乗って、会社に向かった。

 その日もいつものように仕事をこなし、僕は家に帰ってきた。この2年間、会社での業績を落としたつもりはない。だが、僕自身は前のように仕事に打ち込めなくなっている自分に気付いていた。
 しかし、自分と由香が食べていくために、僕が仕事を辞めるわけにも、クビになるわけにもいかない。だから、毎日ただ仕事を「こなして」いる。
 僕が家のドアを開けると、ちょうど由香が廊下を歩いているところだった。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま」
 僕は靴を脱いで、ゆっくりと家に上がった。由香がそれを立ち止まって眺めている。
「どうした?」
 それに気付いて僕がそう聞くと、由香は慌てて首を横に振った。
「ううん・・・あ、夕飯、出来てるよ」
「ああ・・・食べようか」
 僕は着替えを済ませて、台所に入ると、食事の準備がされたテーブルに座る。由香も味噌汁を持ってくると、僕の前の椅子に座った。
「いただきます」
 二人同時にそう言うと、各々食事に手を付け始める。
「由香もだいぶ料理が上手くなってきたんじゃないか?母さんに似たのかな」
 味噌汁を一口飲んで、由樹の作った味噌汁の味に似ていることに気付いて、僕はそう言った。
「うん・・・そうかな。でも、まだお母さんの味が出せないんだよね」
 それからしばらく、無言の食事が続く。由樹が生きてた頃は、笑顔に溢れた楽しい食卓だったな・・・。この二年間は、ずっとこんな感じだった気がする。
 ふと、由香がポツリと口を開いた。
「ねぇ・・・お父さん・・・」
「ん?」
 由香はその後しばらく黙っていたが、自分の茶碗に視線を落としたまま続けた。
「私・・・高校辞めようかな・・・」
 僕は一瞬呆然として、箸を止めたまま由香の顔を見た。由香はゆっくり箸を動かして食事を続けている。
「何を言ってるんだ。そんなの、ダメに決まってるだろう!今更高校も出ないでどうするって言うんだ?」
 僕がそう言うと、由香は急に視線を上げて笑ってみせた。
「・・・冗談だよ、冗談!お父さんってば、本気にするんだから・・・。辞めるわけないじゃん」
 冗談?・・・まったく、紛らわしい・・・。
「つまらない冗談を言ってるんじゃない。高校はしっかり行かないとダメだぞ?」
「分かってるよ。冗談が通じないなぁ」
 それから、由香は口を開かなかった。沈黙のまま食事が終わり、由香は自分の部屋に戻ってしまった。

 その夜、夢を見た。
 僕は必死に手を伸ばす。白く透き通った手を掴もうと。だが、寸でのところで、僕の手はその白い手をかすめる。
 ああ・・・僕はまた掴めなかった・・・
 そして、僕は絶望に歪んだ顔で、僕から遠ざかっていくその人の顔を見た。
 ・・・!
「由香!」
 そこで僕は飛び起きた。涙が頬を伝っていた。
 変な夢を見たものだ・・・。なんで由香が・・・?
 しかし、出勤の準備をするうちに、夢のことはその疑問と共にすっかり忘れてしまった。
 程なく由香も起きてきて、いつものように二人で朝食を済ませる。由香にも別に変わった様子はない。
 しかし、僕は珍しくじっくり由香を観察していてあることに気付いた。
 由香の左の手首に巻き付いているのも・・・
「由香。お前、なんだってリストバンドなんて付けてるんだ?」
 僕の質問に、由香は訝しげな顔をして自分の手首に視線を落とした。
「何言ってるの?いつも付けてるじゃん。別にただの趣味だよ」
 そうだったか・・・?今日初めて気が付いた。最近はそういうのが流行ってるのだろうか。
 朝食を終えると、由香はいつものように僕よりも先に出て、僕もそのしばらく後に家を出る。
 外に出て数歩も歩かない内に、突然誰かが後ろから僕の肩に手を置いてきた。
「おはようございます」
 聞き覚えのある声に、僕は振り返った。
「ああ、昨日の・・・」
 そこに立っていたのは、まさしく昨日のカンフー着の男だ。
「昨日はどうも。何か変わったことはありましたか?」
 男に突然そう聞かれて、僕は首を傾げる。
「いえ・・・特には・・・。ああ、そういえば、今朝妙な夢を・・・」
 ふと思い付いて、僕はなんとなくこの男にそのことを話してみることにした。
「夢、ですか。それはどんな?」
「最初は妻のことを夢に見たんだと思ったんですが、僕が掴めなかった手が、妻ではなく娘だったんです」
 僕がそう言うと、男は突然悲しげに眉をしかめた。
「そうですか・・・」
「どういう意味なんでしょうね。たかが夢なんですがね」
 そう尋ねてみると、男は静かな口調で言った。
「由香さんが左手にリストバンドを付けているのはご存じですか・・・?」
 まるでさっきの光景を見ていたようなタイミングでリストバンドの話が出たので、僕は驚いた。
「ええ、今朝初めて気付いたんですよ。娘はファッションだと言っていましたが・・・」
「そうですか・・・」
 男は更に悲しそうな顔をして続ける。
「あのリストバンド、本当は何故付けているか、ご存じないんですね・・・」
「え・・・どういうことですか?」
「信じられないかも知れませんが、あのリストバンドの下には、無数の傷跡が隠れているんです・・・。由香さんが、彼女自身を傷付けた跡が・・・」
 ・・・なんだって?今なんと言ったんだ・・・?そんな馬鹿なことが・・・
 僕は男の言葉が信じられずに何度も首を振った。
「そんなわけ・・・あるはずないじゃないですか・・・何で由香がそんなことを!」
「何故かと聞かれれば、理由は複数あるように思います・・・」
 男は落ち着いた口調で、しかし尚も悲しげに話す。
「一つには、奥様の死。二つ目は、学校でのいじめです」
 いじめだって・・・?由香が?
 僕は頭がグラグラしてくるのを感じた。由香がそんな素振りを見せたことは・・・
「そして・・・最後の、最も重要な原因は、あなた自身です」
「ぼ、僕が・・・どうして・・・?」
「大切なものを失った気持ちは分かるつもりです。ですが、あなたはそれによって、他のものが目に入らなくなった。あなたにとって、奥様と同じぐらい大切なものがあるはずなのに・・・」
 大切なもの・・・
「由香・・・」
 男が頷く。
「あなたは、この二年、一度でも由香さんとじっくり話したことがありますか?『学校はどうだ』と、そんな極簡単な一言をかけたことがありましたか?由香さんが少しずつ、勇気を出して送っていた危険信号に、気付いてあげましたか?」
 何も言えなかった。由香との会話・・・いつからしなくなっていたのだろう・・・。由樹が、死んでから・・・
「あなたは大切なものを失いました。ですが、それ故にもう一つの大切なものもないがしろにしてしまった。由香さんを救えるのは、あなただけなのに・・・」
 そうだ・・・由香が死んでから、僕は自分の悲しみに押し潰されそうで、由香のことを気に掛けなくなっていたのではないか・・・
「あなたの言う通りだ。僕は、また大切なものを失うところでした。あなたに気付かせてもらわなかったら・・・」
 僕はうつむいていた顔を上げ、男の方を真っすぐ見た。
「今夜、由香と話をしてみます。『対話』することの重要性は、あなたが教えてくれましたから」
 男は穏やかな笑顔を見せて頷いた。
 駅が見えてきた。男が昨日と同じように歩みを止める。また行ってしまうのだろうか・・・
「あなたは、何者なんですか?どうしてそんな答えを知っているんです?」
 男は立ち止まったまま、にっこりと微笑んだ。
「私の名前は『壊れかけた宝』。それらの答えは、全てあなた自身の中にすでにあったんですよ。私は、対話によってその答えを引き出す対話師です」
「どうして僕のところに?」
「ある人から依頼された、としか言えません」
 男はそう言うと、小さく会釈をして、どこへともなくその場を立ち去っていった。
 不思議な男だ・・・。とにかく、今日は帰ったら由香とゆっくり話をしてみよう・・・
 その決意を胸に、僕は仕事に向かった。

 その日の夜、僕は違和感を感じて家の前で立ち止まった。どこの部屋にも電気が付いていない。由香は昼寝でもしているのだろうか。
 とにかくカギを開けて僕は家の中に入った。
「ただいま。由香?」
 玄関先でそう言ってみても、中からは物音一つ聞こえない。そもそも、あるはずの由香の靴がない。
 帰っていないのだろうか・・・。だが、由香が何の連絡もなしに帰りが遅くなったことはこれまでなかったのに・・・
 そんなことを考えながら家の中を探してみたが、由香の姿は見つからなかった。部屋に鞄もないところを見ると、やはり帰っていないようだ。
 おかしいな・・・
 僕がいよいよ不振に思ったとき、玄関のベルが鳴った。由香が帰ってきたのだろうか。
 しかし、ドアを開けた先にいたのは、意外にもあの男だった。
「こんばんは。どうですか?お話は順調ですか?」
 どうやら男も由香が帰っていないことを知らないようだ。いや、本来は知っているほうが変なのだが、この男に関しては何を知っていてもおかしくない気がする。
「いえ、それが、帰ってないみたいなんですよ。こんなこと普段ならないのに・・・」
 僕がそう言うと、突然男の表情が険しいものになった。
「帰っていないんですか?なんてことだ・・・」
 男の声には不安の色があった。その動揺の仕方に僕もつられて不安になってくる。
「何か心当たりがあるんですか?」
 僕が質問するのとほぼ同時に、男は玄関のドアを開け放ち、外を指差した。
「走ってください!由香さんは自殺するつもりです!」
 自殺・・・?
 僕は突然のことに気が動転し、その言葉の意味さえ考えられなくなっていた。
「早く!」
 男の叫び声に弾かれて、僕は鞭を打たれた馬のように外に駆け出した。
「たぶん学校です!急いで!」
 後ろから男の声が聞こえた。
 学校・・・そう遠くはない!由香!待ってろ!
 僕はとにかく無我夢中で走った。由香は家のことを心配してか、近くの高校に通っていた。
 走った甲斐があってか、それほど時間を置かず、学校が見えてきた。
 校門の少し開いた隙間から体を滑り込ませると、辺りを見回す。複数ある校舎の内の一つ、その夜の闇に包まれた屋上に人影が動いたのが見えた。
 あれだ・・・。
 僕はその校舎に走り込み、階段を駈け上る。息が切れて足が重くなったとき、ようやく屋上に続くドアが見えた。
 蹴破るようにドアを開け、フェンスの向こう側にいる娘の姿を見付けると、大きく肩で息をしながらその名前を呼ぶ。
「由香!」
 ビクッと体を震わせて、由香がこっちを振り返った。
「お、お父さん・・・?どうして・・・?」
 由香の顔はもう涙で濡れていた。きっと、そこに立ってからずっと泣き続けていたのだろう。
「由香・・・ごめんな。父さん、自分が辛いってことしか考えてなかった・・・。由香も辛かったんだよな・・・。ごめんな・・・」
 僕は話ながら、ゆっくり由香の方に近付いて行った。
「由香は、父さんにとって、母さんと同じぐらい大切なんだ。だから・・・父さんからもう大切なものを取り上げないでくれ。な?」
 由香は泣きながら、僕の顔をじっと見つめている。
「お父さん・・・私・・・私ね・・・」
「分かってる。由香。これからは、しっかり由香を守ってやるからな。だから、母さんの分まで二人で生きるんだ・・・」
 僕の言葉に、由香が小さく何度も頷いた。
 僕はとりあえず由香に飛び降りる意志がなくなったことを見て取って、ほっと胸を撫で下ろす。
「さあ、ゆっくり、気を付けて、こっちに戻ってくるんだ」
 僕の言葉通り、由香は手摺りを乗り越えるために、手摺りを掴み直そうとした。
 瞬間、突風が屋上を吹き抜けた。由香がバランスを崩す。
「由香!」
 僕は駆け出した。
 由香までの距離は数歩分。全てがゆっくりと動いて見えた。
 由香は後ろに倒れそうになって、足を踏み外す。体が落ちていく中、左手だけが、何かに掴まろうとするように上に伸ばされた。
 僕はその手を掴もうと、必死で手を伸ばす。
 ああ・・・あの夢と同じだ・・・。同じ・・・?
 僕の手は、由香の手をわずかにかすめただけで、空を掴んだ。
 やっぱり・・・僕はダメだ・・・。また・・・掴めなかった・・・
 絶望が僕を取り囲み、精神を蝕んでいく。
 そんな中、どこからともなく声が聞こえた。
「あなたなら大丈夫よ。ね?」
 由樹が優しく僕に笑いかける。
「由樹・・・」
 その瞬間、ぐっと何かを掴む感覚が、伸ばした右手から伝わってきた。そして、その手にかかる確かな重み。
 僕ははっと気が付いた。僕の右手には、白くか細い手が握られている。その先には、由香の怯えた顔が見えた。
 掴んでいる!確かに、由香の手を掴んでいる!
 僕は由香の命の重みを右手に感じながら、急いでその体を引き上げた。手摺りのこちら側まで引き戻すと、由香はその場に座り込んでしまった。
「大丈夫か、由香」
 僕がそう聞くと、由香がしがみついて来た。
「お父さん・・・恐かった・・・恐かった・・・」
 そう言いながら泣く由香の頭を、僕はゆっくりと撫でた。
 ふと、足音が聞こえて、僕は後ろを振り返った。あの男が安心したような表情で立っている。
「ありがとう。あなたのおかげで、なんとか間に合いました」
 僕がそう言うと、男は首を振った。
「いえ、あなたが掴んだんです。今度こそ、間に合った。あなたならもう大丈夫。しっかり掴んでいてあげてくださいね」
 僕はその言葉に目一杯の決意を込めて頷く。
「由樹の声が聞こえた気がしたんです。間に合ったのは、由樹のおかげです」
 由香が埋めていた顔を上げた。
「お母さんが?」
「ああ。母さんが由香を助けたんだ」
 由香が腕で涙を拭う。
「そっかぁ・・・」
 男が微笑んだ。
「奥様も、あなた方のことが心配だったんでしょうね」
「そろそろ教えてください。あなたは一体・・・?」
 僕の質問に、男は静かに笑顔を浮かべた。
「私の名前は月夜野光。あなたの心の闇から真実を照らす『対話師』です」
 そう言いながら、月夜野さんは名刺を手渡した。
「月夜野さん。最後に一つ聞かせてください。あなたは依頼を受けてきたと言っていましたが、一体誰の依頼で・・・?」
 僕がそう聞くと、月夜野さんは頭を掻いた。
「実は・・・先日私の家に奥様の由樹さんがいらっしゃいまして、ことの事情を説明していただき、依頼を受けました」
「え、ですが・・・妻は2年前に死んで・・・」
「はい。私の灰色の右目は、死者の魂が見えるんです」
 その言葉に、僕は呆然としてただただ月夜野さんの顔を見据えるしかなかった。急に、月夜野さんがいたずらっぽく笑った。
「嘘です。右目ネタは皆さん信じますね」
 僕は再び、今度は別の意味で呆然としたが、すぐに思わず笑ってしまった。
「そうですね・・・この依頼は、匿名希望のお節介焼きからの依頼、ということで勘弁してください」
 月夜野さんが再び申し訳なさそうに頭を掻く。気になる所だが、これ以上月夜野さんを困らせても迷惑だろう。とにかく、僕たちのことを心配してくれる誰かだ、と言うことにしておこう。
「それでは、私はこれで失礼します。また何かありましたら、連絡してください」
 そう言うと、軽く会釈をして月夜野さんは背を向けて歩き出した。
「あ、月夜野さん!」
 僕は慌ててその背中に声をかけ、呼び止めた。月夜野さんが振り向く。
「・・・ありがとうございました」
 僕がそう言うと、隣で由香も頭を下げる。
「ありがとう・・・」
 それを見ると、月夜野さんは笑顔を見せた。
「由香さんを大切にしてあげてくださいね。・・・由香さん。お父さんと仲良くしてください」
 そう言い終えると、月夜野さんは今度こそ屋上を後にした。
「・・・不思議な人だったね、お父さん」
 しばらく二人で月夜野さんが去っていった方向を眺めた後、由香がポツリとそう言った。
「ああ・・・そうだな・・・」
 突然、由香が振り返って僕の顔を覗き込んだ。
「ねえ、お父さん。月夜野さんが言ってたこと、本当なんじゃないかなぁ?お母さんが、私たちを助けてくれるように頼んだって」
 僕は思わず目を丸くして、自分の娘の顔をまじまじと見た。
「そんなバカな・・・」
「だって、お父さんだってさっき言ってたじゃない。お母さんが助けてくれた、って」
 笑顔でそう言う由香に少し驚いたが、僕もすぐに微笑み返した。
「ああ・・・由樹は今でも見守っててくれるんだな・・・」
「うん、きっとそうだよ・・・」
 星が綺麗に輝いていた。その下で、親子二人、ゆっくりと帰り道を歩く。

 




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