| 暗黒の章 第28章 この絶え間ない日常の中で |
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きゅうりが嫌いだ。 別に特別な理由はない。ただ味が嫌いで、半分は食わず嫌い。 だけど、今朝もお母さんがサラダにきゅうりを入れて出してきた。私はそれを一つ一つ綺麗に選り分けながら食べる。 最後に残っていたコーヒーを飲み干すと、私は立ち上がってバッグを持った。 「あら、もう行くの?いってらっしゃい。・・・あ、またきゅうり残して!」 私はお母さんの言葉を背に受けながら家を出た。 駅まではいつも自転車を使う。10分足らずで駅に着く。毎日同じ道順。 定期を改札に通して駅に入り、私はいつもと同じ場所で電車を待つ。先頭から2両目の前から3番目のドア。 満員電車が嫌いだ。 おやじの臭い息と体臭。若い男のいやらしい視線。隣の女の鼻に付く香水の匂い。やり場のない自分の足。 だけど、私は今日も満員電車に乗る。毎日乗る。朝のこの時間、都心に向かう電車はいつも超満員だ。 目的地まで40分はかかる。私は毎日その40分を黙って耐えなければいけない。 車内は人の熱気が渦を巻き、乗り合わせた様々な人の匂いが混ざり合う。 私は吐き気と目眩を覚えた。しかし、お構いなしに電車は揺れて、前のサラリーマンの背中が私を押し潰す。 私は朦朧とした意識の中で、自分の尻に何かが触れるのを感じた。 やだ・・・痴漢・・・? 私は振り向いて相手の顔を確かめようとするが、体が人の間で固定されていてそれもできない。 だが、今度は斜め前の男の肘が私の胸に当たった。私は目線を落として自分の胸の辺りを見た。男の肘は私の胸の膨らみを押し潰すように触ったまま動かない。 ・・・いや、違う。何か変だ。これは触っているどころじゃない。男の肘が私の体にめり込んでいる。液体に手を突っ込んだみたいに。 しかも、徐々にその肘は私に食い込んでくる。痛みはないが、その光景に不快感を感じた。 そして、どうやら私が痴漢かと思った後ろの手も、私の腰の辺りから私の体にめり込んでいるようだ。 ふと下を見ると、隣の女子高生の足と私の足もくっついている。 私はわけが分からなくなって辺りを見回した。周りの人たちも、私と同じように隣り合った人同士でくっついている。 だが、私以外は全員、この事態を当然のことのように受け入れて、普通の表情だ。 私が変になったのか・・・周りが変になったのか・・・ そんなことを考える間に、周りにいた人たちが私に溶け込み、私は肉と血が他人と混ざり合う感覚に吐き気をもようした。 やがて、私は大きな『肉団子』の一部になった。もはや自分だと識別できる部分はなく、私は自分の体という領域を失った。 巨大な一繋がりの肉の塊となった私はしかし、今やこの状況に心地よさを覚え始めた。 この安定感。電車の揺れに左右されず、誰に押されることもない。 だが、次の停車駅に着いてドアが開くと、肉団子全体が転がるようにドアから飛び出した。 私は転んでホームに両手を付く。 その瞬間、私は私の肉体を取り戻していた。 頭が混乱して、慌てて辺りを見回すが、他の乗客は平然と、ドアの前に座り込んだ私を迷惑そうに避けて、電車から降りてきている。 ふと、目の前に人影が立ちふさがった。見ると、若い男が手を差し出している。 「大丈夫ですか?」 心配そうな男の顔を見て、私ははっと思い出した。私の胸に肘がめり込んでいた男だ。 まためり込むんじゃないかと心配しながら、私は男の手を掴んで立ち上がる。 「あの、さっき・・・いえ、大丈夫です・・・すみません・・・」 男は特に変わった様子もないので、私は聞くのを止めて、軽くお辞儀をしてその場を立ち去った。 いつの間にか目的の駅に着いている。私は駅の構内を歩きながら首を振った。 やっぱり、私が錯覚でも見てたのか・・・そうじゃなきゃ立ったまま寝ちゃって夢でも見てたのかな・・・ とにかく、私は気分を入れ替えて会社に向かった。 会社が嫌いだ。 特に大きくもなく、かといって大きくしようという意志もない。ただ毎日似たような仕事をダラダラと繰り返すばかり。 だが、私は今日もいつものように仕事を済まし、会社での一日を終えた。 帰りの電車もまた満員だったが、今朝のようなことは起こらなかった。 駅に着くと、私は自転車で家までの道を急いだ。 家が嫌いだ。 立地が悪く、日当たりも悪い。狭くて汚いし、おまけに近所のおばさんたちがうるさい。 私は帰ってくるとすぐに自分の部屋にこもった。唯一の安心できる場所だ。 それからお風呂と夕飯の時以外は部屋から出ず、私はいつの間にか眠ってしまった。 朝が嫌いだ。 毎日がこの瞬間の故に嫌になる。なぜだるい体を起こさなければならないのか・・・ とは言え、私はいつもの朝と同じように起き上がる。そして会社に行く支度を済ます。 居間に行くと、お母さんが朝食を用意してくれていた。今朝はサラダはない。私は時間ギリギリまでゆっくり朝食を取ると、いつものように自転車で駅に向かった。 自動改札は嫌いだ。 私たちが便利になるためにあるはずの機械が、流れ作業のように私たちを仕分けしていく。機械に制限される矛盾。 しかし、私はいつものように改札に定期を通して、入場を許可してもらう。 そして、いつもと同じ場所で電車を待つ。先頭から2両目の前から3番目のドア。 その車両には、何となくいつもと同じような顔ぶれ。だけど、誰一人知らない。 私は昨日のことを思い出してなんとなく一人で体を硬直させていた。 しかし、今日は誰も私にめり込んでくる気配はない。やっぱり、昨日のは錯覚だったのだろうか。 その時、電車が揺れて、隣に立っていたサラリーマン風の男が私の方に倒れかかってきた。 「す、すみません」 焦った声で謝る男の顔を見た。特に特徴のない、すぐに忘れてしまいそうな顔だ。私は適当に小さく会釈だけ返しておいた。こんなこと、満員電車ではよくあることだ。 それより・・・良かった。今日は何も起こらなさそうだ。 ほっとすると、私は緊張で下げていた視線を上げた。 ふと座席の端に座っている男が目についた。どこかで見たことがあるような気がする。すごく最近・・・ 私は突然思い出した。その男は、ついさっき私にぶつかってきた男にそっくりなんだ。いや、「そっくり」と言う度合いを越えている。本人だとしか思えない・・・ 私は恐る恐る隣に視線を送った。いる!さっきの男は、まだ私の隣にいる。服装こそ違うが、顔は瓜二つだ。とても信じられないほど似ている。 双子?いや、知り合いですらないだろう。二人はかなり離れたところにいるし、そんな気配は一切ない。 不思議なこともあるものだ・・・。私がそんな風に考えたとき、私の前方のドアが開いて、何人かの乗客が乗ってきた。 私は目を疑った。乗ってきた男たちが、皆さっきの男と同じ顔をしているのだ。 それだけではない。一緒に乗ってきた数人の女もまた、男とは違うものの、同じ顔をしている。 私はしばらく呆然と乗ってきた男女を見ていたが、はっと気付いて辺りを見回した。 悪い予感は的中した。車内の全員が同じ顔をしているのだ。区別と言えば、男女の区別と、服装の違いだけだろう。 それ以外では、全ての男、全ての女が同じ顔をしている。そして、どの顔も不気味なほど表情がない。 この堪え難い違和感に、私は胃液が逆流しそうになる。 私は目を堅く閉じた。もうあの顔は見たくない。全員同じ顔になることが、これほど気持ち悪いことだとは・・・ しばらくして、車内アナウンスが私の降りるべき駅名を告げる。私は閉じていた目をゆっくり開いた。 なるべく周りを見ないように、真っすぐ前を凝視する。すると、ドアのガラスの部分に車内が反射しているのが見えた。 私は目を懲らした。そこに何か恐ろしいものを見た気がしたのだ。 ガラスに反射した車内の、私がいるはずの場所に、あの顔があるのだ。私の顔も同じになっている! 私は叫びたかった。思い切り悲鳴を上げて、全てを忘れたかった。しかし、口は動けど、喉から声が出ない。 私は口を空しくパクパクさせながら、呆然と立ち尽くす。ドアが開いたことにも気付かなかった。 ドアが開くと、人がひしめきながら外に向かって動きだした。後ろから流れてくる人々が、立ち止まっている私にぶつかってくる。 ぶつかられた衝撃で、私は少しだけ平静を取り戻した。 今ぶつかってきた人・・・ 私ははっと周りの人を見た。いつの間にか、あの顔の人が一人もいなくなっている。皆それぞれの顔を持って、表情がある。 また錯覚・・・? 私は頭痛を感じて頭を押さえた後、閉まりかけたドアから慌てて外に出た。 嫌な汗をかいている。心拍数が上がっているのを必死に落ち付かせるように大きく息をしながら、私はバッグからコンパクトを出して、自分の顔を確認した。 そこには、少し顔色が悪いが、しかしいつもと同じ自分の顔が写っていた。私はほっと胸を撫で下ろす。しかし、同時に不安が私を包んだ。 連日私に見えるこの幻覚はなんなのだろう。私はどうかしてしまったのだろうか。 とにかく、私はおぼつかない足取りでフラフラと会社に向かった。 都心が嫌いだ。 なにしろ空気が悪い。人が悪い。それに、なぜか誰もが格好つけて、自己満足しているのが気に入らない。 だが、私は毎日この都心に向かってくる。不可抗力で吸い寄せられるように。 そして、今日もまた、「個」が埋もれる人混みの中で私は仕事を終える。 やはり帰りの電車は何事もなく、私は無事に家に帰り着いた。昨日と同じように、部屋にこもる。 次の日の朝も、私はいつもと同じ場所で電車を待っていた。 さすがに別の車両に乗ろうかとも思ったが、一夜明けると昨日のことは現実味を失い、そのせいで私の日常を壊すのはバカらしかった。 いつもと同じ時間に電車がホームに滑り込んでくると、私は開いたドアから機械的に車内に入った。 この日、私が極力周りを気にしないようにうつむいて、ずっと目を瞑っていたせいか、妙なことは起こらなかった。 何事もないまま、目的の駅の前の駅まできたので、私は少し安心した。だが、また油断はできない。私は駅に着くまで目を開けないことに決めた。 私の乗っている急行電車は、ここから10分近く止まらない。この区間さえ乗り切れば・・・ その時、耳に不快な音が飛び込んできた。 私の記憶に照らし合わせるならば、今のは「おなら」の音だ。まさかとは思ったが、案の定、すぐに異臭が鼻を突いた。 最悪だ・・・。こんな閉鎖空間で・・・ そう思った瞬間、四方八方から連続してその音が聞こえてきた。その音の数は、まるで乗り合わせた全員が放屁したかに思えた。 凄まじい激臭が漂ってきて、私は吐きそうになり、たまらず目を開けた。 しかし、私以外の人々はまるで表情を変えていない。 なにこれ・・・これも私の幻覚・・・? 音はもう止まっていたが、激臭が容赦なく私の鼻から入り込んでくる。私は一瞬気が遠退くのを感じた。これはとてもじゃないが堪えきれない。 バッグからハンカチを出すと、私はそれを鼻と口に当てて、息を止めた。 早く・・・早く着いて・・・ 息を止めていても、微かに匂いが入り込んでくる。しかも、息を止めるのだってそう長くはもたない。 苦しくなってきて、私は口から大きく息を吸った。にも関わらず、 空気に味が付いているのかと間違うほどの悪臭を感じる。 いよいよ吐きそうになり、私は混乱と吐き気と激臭とで、気を失いかけた。 その時、電車が止まる揺れと共に、ドアが開き、車内と外の空気が入り交じる。途端に、車内の激臭は嘘のように消え失せた。 私は逃げ出すように電車を降りると、大きく息を吸い込んだ。都心の汚い空気が、これほど美味しく感じる瞬間はまずないだろう。 とにかく、今日で3日目だ・・・。私がおかしくなってしまったのだろうか。 しかし、この通勤時以外は一切こんなことは起こらない。一体、どうしてしまったと言うのか・・・ 原因も解決策も見つからないまま、私はこの日もつまらない仕事をこなして家に帰ってきた。 「あら、おかえりなさい。・・・あなた、大丈夫?顔色悪いわよ?」 帰ってきた私を見て、お母さんが心配して声をかけてくる。 それはそうだ。毎朝あんなことがあったのでは、気分が晴れやかになるわけがない。 とはいえ、そのことを話したところでどうなるわけでもないので、私は適当な返事を返して部屋に戻る。 次の日の朝、駅に向かう途中で私は悩んだ。今日もいつもの車両に乗るかどうかを。 今日も何か起こるかも知れない。そう思うと会社に行く気さえ失せてくる。 しかし、考えてみれば、これまで別になんらかの害があったわけではない。ただ幻覚を見たりしただけだ。 そのせいで、私の行動パターンを崩すのは癪だ。どうするべきか・・・ 悩んだ末、私はいつも通りの場所に立った。幻覚ぐらい、意識を強く持ってかき消してしまえば良いのだ。 私はそう決心すると、拳を握り締めて、到着した電車に乗り込む。どんな幻覚だろうと、打ち破るつもりでいた。今日こそ打ち勝とうと。 しかし、電車が走りだし、目的地まで半分の距離を走った頃だろうか。その瞬間は前兆なく訪れた。 凄まじい揺れの後、電車が横に倒れたのである。 押し込められた大量の人々が、お互いの体を打ち付け合い、折り重なり、叫んだ。パニックに陥る私の意識の中を「脱線」の2文字が過った。 だが、事態はそれだけで済まなかった。 脱線して横転した前の方の車両の内、この2両目だけが折れ曲がるように隣の線路上にはみ出たのだ。 間髪入れずに、対向電車がこの車両に突っ込んだ。衝撃と共に、2両目だけが他の車両から切り離されて弾き飛ばされ、すぐ横を通っていた国道に投げ出された。 当然、この時間の交通量が災いし、数代の車が突っ込んできた。 そして、あろうことか、その内数台が炎上して爆発を起こしたのである。 一連の事故の後、車内の状態は凄惨だった。 中の乗客たちの体はバラバラになり、他人のものと血肉が混ざり合った。 更に、何回も転がる車両の中で撒き散らされた糞尿にまみれ、辺りは激臭に包まれる。 そして、誰もが白目を見開き、口をだらしなく開き、絶望に歪んだような、同じ顔でそこに横たわっていた。 だが、私はそれを知ることもなく、その無数の死体の中の一つになった・・・ |